日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「神を呼ぶヨブ」

主日礼拝 2019年9月29日

23:1  ヨブは答えた。
:2  今日もまた、私の嘆きは激しく、 
  自分のうめきのゆえに私の手は重い。
:3  ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知っ  
  て、 その御座にまで行きたいものだ。
:4  私は神の御前に自分の言い分を並べて、 
ことばを尽くして訴えたい。
:5  神が私に答えることばを知り、 
神が私に言われることをわきまえ知りたい。
:6  神は強い力で私と争われるだろうか。 
いや、むしろ私に心を留めてくださるだろう。
:7  そこでは正直な人が神と論じ合うことができ、 
私は、とこしえにさばきを免れるだろう。

「ヨブ記23章1-7節」

牧師の言葉

1. 神を持たない人の不満足
「神を持つとは神を礼拝することだ」とルターは言ったそうです。では、神を持つ人は喜怒哀楽をどのように扱うのでしょうか。神を持つ人は喜びのとき、人に自慢し、褒めてもらうことがなくても思いっきり誇ることができます。神を持つ人は悲しいとき、原因探しをしなくても静まることができます。神を持つ人は怒れるとき、恨みがましくならず心を晴らすことができます。神を持つ人は苦しいとき、間違った道に足を踏み入れることなく、じっと耐えることができます。「神を信じて何の意味があるのか」「神に頼るなんて弱い人間のすることだ」といった心の声に惑わされることなく、神の声をしっかりと聞き、そこに息づき(憩い)ましょう。
2. どんな祈りも聞いてくださる神
この箇所で、ヨブは祈っています。「ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座にまで行きたい」(23:3)。ヨブは神に会いたい、その場所が分かれば飛んでいきたいと叫んで、祈れる相手を切望しています。そして、神にお会いしたら「自分の言い分を並べて、ことばを尽くして訴えたい」(23:4)と張り切っています。祈りは美辞麗句や叶えられそうなお願い、感謝でなくてもよいのです。このヨブのように絶対に訴えてやる!と神に迫る祈りもアリなのです。神はそうした祈りを拒絶せず、ちゃんとご自身で聞いておられる祈りとして、聖書に記されたのです。このことは、私たちにとって大きな励まし、示唆、新しい発見ではないでしょうか。ある人は「祈りが失敗する唯一の理由は、祈りをやめることだ」と書きました。神は祈りを拒否されません。どんな祈りにも耳を傾けてくださいます。それは、祈りが交わりであるからです。わが子が何に苦しみ、何を考え、何を感じているのか。親はどんなことであっても聞きたいものです。そして、それが心にある苦い思いや悔しい思い、初めて聞くようなドキッとする内容であればあるほど「よくぞ言ってくれた」と喜び、その子を抱きしめるのが親ではないでしょうか。人間の親であってもそうなのですから、あわれみ深い天の父はそれとは比較にならないほど心震わせ、強くハグをしてくれるはずです。
3. 祈りの鍵
 しかし、祈りには「鍵」があります。鍵を持っていなければ扉の前にいたとしてもその先には進めません。主イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)と言われました。だれもイエスを「通してでなければ」天の父のみもとに行くことはできない。自分の力、行い、ルートでは天の父にたどり着きません。どんなに綺麗で考えられた祈りであっても、神にとってはそのひとり子イエスの罪なき聖さと完全な義だけが御目にかなっているからです。イエスの名を借りて祈ること。これが自分本位の祈りを遠ざけ、神をあがめながら正しい姿勢で祈る鍵となるのです。さあ、祈りましょう。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

神を呼ぶヨブ

主日礼拝 2019年9月29日

聖書の言葉

23:1  ヨブは答えた。
:2  今日もまた、私の嘆きは激しく、 
  自分のうめきのゆえに私の手は重い。
:3  ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知っ  
  て、 その御座にまで行きたいものだ。
:4  私は神の御前に自分の言い分を並べて、 
ことばを尽くして訴えたい。
:5  神が私に答えることばを知り、 
神が私に言われることをわきまえ知りたい。
:6  神は強い力で私と争われるだろうか。 
いや、むしろ私に心を留めてくださるだろう。
:7  そこでは正直な人が神と論じ合うことができ、 
私は、とこしえにさばきを免れるだろう。

「ヨブ記23章1-7節」

牧師の言葉

1. 神を持たない人の不満足
「神を持つとは神を礼拝することだ」とルターは言ったそうです。では、神を持つ人は喜怒哀楽をどのように扱うのでしょうか。神を持つ人は喜びのとき、人に自慢し、褒めてもらうことがなくても思いっきり誇ることができます。神を持つ人は悲しいとき、原因探しをしなくても静まることができます。神を持つ人は怒れるとき、恨みがましくならず心を晴らすことができます。神を持つ人は苦しいとき、間違った道に足を踏み入れることなく、じっと耐えることができます。「神を信じて何の意味があるのか」「神に頼るなんて弱い人間のすることだ」といった心の声に惑わされることなく、神の声をしっかりと聞き、そこに息づき(憩い)ましょう。
2. どんな祈りも聞いてくださる神
この箇所で、ヨブは祈っています。「ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座にまで行きたい」(23:3)。ヨブは神に会いたい、その場所が分かれば飛んでいきたいと叫んで、祈れる相手を切望しています。そして、神にお会いしたら「自分の言い分を並べて、ことばを尽くして訴えたい」(23:4)と張り切っています。祈りは美辞麗句や叶えられそうなお願い、感謝でなくてもよいのです。このヨブのように絶対に訴えてやる!と神に迫る祈りもアリなのです。神はそうした祈りを拒絶せず、ちゃんとご自身で聞いておられる祈りとして、聖書に記されたのです。このことは、私たちにとって大きな励まし、示唆、新しい発見ではないでしょうか。ある人は「祈りが失敗する唯一の理由は、祈りをやめることだ」と書きました。神は祈りを拒否されません。どんな祈りにも耳を傾けてくださいます。それは、祈りが交わりであるからです。わが子が何に苦しみ、何を考え、何を感じているのか。親はどんなことであっても聞きたいものです。そして、それが心にある苦い思いや悔しい思い、初めて聞くようなドキッとする内容であればあるほど「よくぞ言ってくれた」と喜び、その子を抱きしめるのが親ではないでしょうか。人間の親であってもそうなのですから、あわれみ深い天の父はそれとは比較にならないほど心震わせ、強くハグをしてくれるはずです。
3. 祈りの鍵
 しかし、祈りには「鍵」があります。鍵を持っていなければ扉の前にいたとしてもその先には進めません。主イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)と言われました。だれもイエスを「通してでなければ」天の父のみもとに行くことはできない。自分の力、行い、ルートでは天の父にたどり着きません。どんなに綺麗で考えられた祈りであっても、神にとってはそのひとり子イエスの罪なき聖さと完全な義だけが御目にかなっているからです。イエスの名を借りて祈ること。これが自分本位の祈りを遠ざけ、神をあがめながら正しい姿勢で祈る鍵となるのです。さあ、祈りましょう。

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