日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「しもべの喜び」

主日礼拝 2018年4月22日

イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、 『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、 赦してやりなさい。」
使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」
しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。
ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、 そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、 自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。
しもべが言いつけられたことをしたからといって、 そのしもべに感謝するでしょうか。
あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。 なすべきことをしただけです』と言いなさい。」

「ルカの福音書17章1-10節」

牧師の言葉

1. つまずきをもたらさないように
世の中はいつも「スキャンダル」に満ちあふれています。ニュースで取り上げられるのは政治家や芸能人のスキャンダルですが、それを見ている私たち自身はどうなのでしょうか。それらとは一切無関係に生きられているでしょうか?今朝の箇所でイエスさまは弟子たちに向かって「つまずき(スキャンダルというギリシャ語)をもたらす者はわざわいです」(1節)と話し始められています。主イエスの弟子といえども、つまずきをもたらす者にならぬようにと警告を与えられています。誰も、この命令から自由な人はいません。この世でつまずきが起こるのは仕方がなくても、自分で人をわなにかけるような、人を小馬鹿にするような、人を見くびるような道を歩んではいけないと言われます。そのために「自分自身に気をつけなさい」(3節)=自分に用心せよと言われます。つまずきを起こす者を笑い者にすることも、非難することもなく、ただ自分自身を見つめよと言われていることにハッとさせられないでしょうか?
2. 信仰を増し加えてください
これに続いて「日に七度罪を犯しても七度悔い改めるなら赦してあげなさい」と言われた時、使徒たちは「自分たちの信仰を増し加えてください!」とお願いをしました。普通の人間なら、日に同じことで二度、三度と罪を犯すものには堪忍袋の尾が切れます。ましてや「日に七度でも赦しなさい」とは常軌を逸した挑戦なのです。使徒たちは、本気で主の教えに従おうと思ったからこそ、ここでそう願い出ています。現状の自分ではそんな命令は聞けないことを知っていたからです。信仰や謙虚さに「もう十分」というレベルはありません。それで、主は「からし種」をたとえに答えられました。やがて鳥が巣を作るほどに生長するという種粒を、イエスさまは好んで用いられました。つまずきを与えず、人の罪を赦し続けるなんて「できない」と根を張るのではなく、「できる」信仰を種粒ほどでいいから持って、生きてみなさいというチャレンジを与えておられるのです。
3. 主イエスのしもべとして生きられる喜び
この箇所は「しもべ」の話しをもって終わります(7〜10節)。自分自身に気をつけ、スキャンダルを起こさず、人を赦して生きる・・・それは偉大な人物になるのでも、聖人になるのでもなく、ただ「しもべ」の姿だと教えておられるのです。新約聖書の時代「しもべ=奴隷、召使い」は通常の社会制度でした。主人は自分のしもべをどのように扱うでしょうか?しもべが畑仕事をしたからといって褒めることはしません。それをして当然だからです。1つ仕事を終えたら、主人がご飯を用意して接待することなどあり得ません。なぜなら、しもべは主人の命じられたことをなすことが当然と考えられているからです。しもべは主人からもてなしや恩をいただく分際ではありません。大事なのは、誰に仕えるか、です。主人を見誤るしもべほど不幸なことはありません。王の王であるイエスさまのしもべであることは、私たちにとって最高の称号です。イエスさまのしもべとして生きるとき、私たちはつまずきからも、不平からも、欲からも解放され、不思議と喜びが湧き上がるのです。

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聖書の言葉

「生きている内に」

主日礼拝 2018年4月15日

ある金持ちがいた。 いつも紫の衣や細布を着て、 毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。 犬もやって来ては、 彼のおできをなめていた。
さて、この貧しい人は死んで御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、 ハデスで苦しみながら目を上げると、 アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
アブラハムは言った。『子よ。 思い出してみなさい。 おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。 ここからそちらへ渡ろうとしても、 渡れないし、 そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。 』
彼は言った。『父よ。ではお願いです。 ラザロを私の父の家に送ってください。 私には兄弟が五人ありますが、 彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。 』
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、 彼らは悔い改めるに違いありません。 』
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、 たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

「ルカの福音書16章19-31節」

牧師の言葉

1・イエスさまのたとえ
この箇所は、聖書の中でもめずらしいたとえ話として知られています。それはたとえ話で唯一、主人公に名前が付けられている点と、死後の世界が描かれている点です。イエスさまは、人生についての楽しい話や役立つ知恵ではなく、神の救いのご計画の全体をはっきりと宣べられました。それは、この話の前にある不正な管理人のポイントでもあったように、地上の生涯の清算を神の前でする時が訪れる、ということです。ここに登場する金持ちは毎日宴会をするようなぜいたくな暮らしぶりをしていました。そして、その門前には「ラザロ」というできものだらけの貧しい人が寝ており、犬がそのおできを舐めていました。好対照な二人の地上での生活ですが、やがて死を迎えた後、二人の立場は逆転したのです。天国で信仰の父アブラハムのそばにいたのはラザロで、対する金持ちは炎の中で苦しみ叫んでいたのです。しかも、明らかにメインは死んでからの光景にあります。地上でどんな楽しいことをしても、死後過ごす場所によって、それらはいっさい効果的なものとはならず、ただ後悔と苦しみだけが逼迫するのでした。
どうしてこのような対照的な結末となったのでしょうか?
2・よみでの後悔
23節の「よみ(ハデス)」とは死後に移される世界と考えられていました。いわゆるアブラハムを初めとする、神を信じる人々が引き上げられる天国とは別の場所です。金持ちは神の国には連れて行かれず、炎の中で渇きに苦しんでいます。彼はそこで初めてしたことが3つありました。1つ目は、初めて天を見上げたことです。「よみで苦しみながら目を上げると」(23節)、何とそこからはあのラザロが見えたのです。地上では考えつかないような光景がそこにはありました。2つ目は、初めて神の知識を知ったことです。炎の中で苦しんでいるとき、初めて彼は厳粛な神の知識について身をもって知ったのでした。3つ目は、彼が初めて自分の家族の救いを願ったことです。「お願いですから、ラザロを私の家族に送ってください・・・こんな苦しい場所に来ることがないように」(27〜28節)と懇願しました。それまで彼の家族はきっと彼と同じように毎日ぜいたくに暮らし、苦しみとは無縁の生活をしていたに違いありません。しかし、いざ自分が神の知識を知った時、彼は家族の救いについて切実に、緊急な願いとして持ち始めたのです。しかし、これらのいずれも「時すでに遅し」というのが、このたとえの鋭さになっています。
3・今、なすべきこととは?
金持ちは(死んでも金持ちと表現されざるを得ない貧しさが読み取れます)死んだラザロが生き返って「神は本当におられる。生きている間に永遠への備えをしなきゃだめだ」と言いに行ったなら、きっと家族は悔い改めるでしょうと頼みます。しかし、「モーセと預言者=聖書」に今、耳を傾けていないのであれば、どんな奇跡を目の当たりにしても彼らは聞き入れも、信じもしないと結びます。これをあなたはどのように読んでいるでしょうか?神はこのみことばを送って最大の警告を発しておられます。その時では、遅いのです。
 今、神を見上げ、受け入れ、家族の救いを祈る実践をしようではありませんか。

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聖書の言葉

「神に仕える」

主日礼拝 2018年4月8日

イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。
「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
主人は、 彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい』
管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるがさてどうしよう。土を掘るには力がないし物ごいをするのは恥ずかしいし。ああ、 わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、 まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言うと、:6 その人は、『油百バテ』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい』と言った。それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、『小麦百コル』と言った。 彼は、『さあ、 あなたの証文だ。 八十と書きなさい』と言った。
この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、 自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
しもべは、 ふたりの主人に仕えることはできません。 一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません 」

「ルカの福音書16章1-18節」(抜粋)

牧師の言葉

1・抜け目のなさ(賢さ)をほめる主人
この箇所は、イエスさまのたとえ話の中でもある種異質な、理解の難しいところだとされています。ただ、たとえ話を読む時には、多くの意味が込められていると詳細をこじつける読み取り方ではなく、1つのテーマに沿うことが原則となっています。これは「不正な管理人のたとえ」として知られていますが、中心は不正な管理人が「抜け目なくやった(賢く行動した)」(8節)のをほめられた点です。不正するのが賞賛されているわけではなく、自分の悪事が主人にバレた雇われ管理人が、このピンチから自分を守るにはどうしたら良いのか、迅速に、いとも上手に行動したその必死とも言える思慮深さをほめているのです。「この世の子らは、自分たちの世について」いつも考えており、最優先して行動しています。ましてや、光の子ら=イエスの弟子たち・イエスを信じる者たちは、まことの神に対してそのような必死さ・熱心さ・緊迫感があるだろうか?という問いかけなのです。この世であぶれれば、それは大変なことです。この世で評判を落とそうものなら、必死になって挽回しようとします。同様に、まことの神に対して、さらに必死に、さらに熱心に行動することを促しています。
2・富の用い方
このたとえを受けて、イエスさまは「富の用い方」についてその方向を教えておられます。「不正の富で、自分のために友を作りなさい」(9節)。この「富」という言葉は単にお金だけを意味せず、13節で「神」と対比して使われているように、まことの神以外に気をそらせ、見つめさせ、没頭させる地上的な輝きのことを指します。短絡的、自己満足的な輝きに目を奪われ、まことの神に対して生きることを損じるなら、その損害こそ取り返しがつかなくなるというのです。それで、与えられた富(人生の元手となるお金、健康、身体、立場、賜物)は、不正なものに使わず、友を得るため=しかも「永遠の住まいに迎えてくれる」(9節)ことのために用いてこそ価値があるのだと言われるのです。このたとえの最初に、管理人は自分のために富を用いたとき、主人からその仕事を取り上げられそうになりました。しかし、富を、友を作るために用いたとき、主人はその必死さを認められたのです。私たちが、友のために、交わりのためにどれだけ与えたかを、主人は見ておられ、それを最も喜ばれるのです。
3・神に仕える
このたとえを聞きながら、パリサイ人たちは「あざ笑って」(14節)いました。彼らの聖書に対する知識や人前でなされる行為は「神の前で憎まれ、嫌われる」ものでした。なぜなら、彼らは「人の前で自分を正しいとする」(15節)生き方を追求していたからです。それは神に仕えているようで、実は「富」のために仕えている生き方なのです。自分が認められ、自分が賞賛され、自分に利益をもたらすものから、神が賛美され、神が知られ、神の友となるように委ねられた富を用いて生きましょう。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

しもべの喜び

主日礼拝 2018年4月22日

聖書の言葉

イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、 『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、 赦してやりなさい。」
使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」
しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。
ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、 そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、 自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。
しもべが言いつけられたことをしたからといって、 そのしもべに感謝するでしょうか。
あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。 なすべきことをしただけです』と言いなさい。」

「ルカの福音書17章1-10節」

牧師の言葉

1. つまずきをもたらさないように
世の中はいつも「スキャンダル」に満ちあふれています。ニュースで取り上げられるのは政治家や芸能人のスキャンダルですが、それを見ている私たち自身はどうなのでしょうか。それらとは一切無関係に生きられているでしょうか?今朝の箇所でイエスさまは弟子たちに向かって「つまずき(スキャンダルというギリシャ語)をもたらす者はわざわいです」(1節)と話し始められています。主イエスの弟子といえども、つまずきをもたらす者にならぬようにと警告を与えられています。誰も、この命令から自由な人はいません。この世でつまずきが起こるのは仕方がなくても、自分で人をわなにかけるような、人を小馬鹿にするような、人を見くびるような道を歩んではいけないと言われます。そのために「自分自身に気をつけなさい」(3節)=自分に用心せよと言われます。つまずきを起こす者を笑い者にすることも、非難することもなく、ただ自分自身を見つめよと言われていることにハッとさせられないでしょうか?
2. 信仰を増し加えてください
これに続いて「日に七度罪を犯しても七度悔い改めるなら赦してあげなさい」と言われた時、使徒たちは「自分たちの信仰を増し加えてください!」とお願いをしました。普通の人間なら、日に同じことで二度、三度と罪を犯すものには堪忍袋の尾が切れます。ましてや「日に七度でも赦しなさい」とは常軌を逸した挑戦なのです。使徒たちは、本気で主の教えに従おうと思ったからこそ、ここでそう願い出ています。現状の自分ではそんな命令は聞けないことを知っていたからです。信仰や謙虚さに「もう十分」というレベルはありません。それで、主は「からし種」をたとえに答えられました。やがて鳥が巣を作るほどに生長するという種粒を、イエスさまは好んで用いられました。つまずきを与えず、人の罪を赦し続けるなんて「できない」と根を張るのではなく、「できる」信仰を種粒ほどでいいから持って、生きてみなさいというチャレンジを与えておられるのです。
3. 主イエスのしもべとして生きられる喜び
この箇所は「しもべ」の話しをもって終わります(7〜10節)。自分自身に気をつけ、スキャンダルを起こさず、人を赦して生きる・・・それは偉大な人物になるのでも、聖人になるのでもなく、ただ「しもべ」の姿だと教えておられるのです。新約聖書の時代「しもべ=奴隷、召使い」は通常の社会制度でした。主人は自分のしもべをどのように扱うでしょうか?しもべが畑仕事をしたからといって褒めることはしません。それをして当然だからです。1つ仕事を終えたら、主人がご飯を用意して接待することなどあり得ません。なぜなら、しもべは主人の命じられたことをなすことが当然と考えられているからです。しもべは主人からもてなしや恩をいただく分際ではありません。大事なのは、誰に仕えるか、です。主人を見誤るしもべほど不幸なことはありません。王の王であるイエスさまのしもべであることは、私たちにとって最高の称号です。イエスさまのしもべとして生きるとき、私たちはつまずきからも、不平からも、欲からも解放され、不思議と喜びが湧き上がるのです。

生きている内に

主日礼拝 2018年4月15日

聖書の言葉

ある金持ちがいた。 いつも紫の衣や細布を着て、 毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。 犬もやって来ては、 彼のおできをなめていた。
さて、この貧しい人は死んで御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、 ハデスで苦しみながら目を上げると、 アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
アブラハムは言った。『子よ。 思い出してみなさい。 おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。 ここからそちらへ渡ろうとしても、 渡れないし、 そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。 』
彼は言った。『父よ。ではお願いです。 ラザロを私の父の家に送ってください。 私には兄弟が五人ありますが、 彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。 』
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、 彼らは悔い改めるに違いありません。 』
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、 たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

「ルカの福音書16章19-31節」

牧師の言葉

1・イエスさまのたとえ
この箇所は、聖書の中でもめずらしいたとえ話として知られています。それはたとえ話で唯一、主人公に名前が付けられている点と、死後の世界が描かれている点です。イエスさまは、人生についての楽しい話や役立つ知恵ではなく、神の救いのご計画の全体をはっきりと宣べられました。それは、この話の前にある不正な管理人のポイントでもあったように、地上の生涯の清算を神の前でする時が訪れる、ということです。ここに登場する金持ちは毎日宴会をするようなぜいたくな暮らしぶりをしていました。そして、その門前には「ラザロ」というできものだらけの貧しい人が寝ており、犬がそのおできを舐めていました。好対照な二人の地上での生活ですが、やがて死を迎えた後、二人の立場は逆転したのです。天国で信仰の父アブラハムのそばにいたのはラザロで、対する金持ちは炎の中で苦しみ叫んでいたのです。しかも、明らかにメインは死んでからの光景にあります。地上でどんな楽しいことをしても、死後過ごす場所によって、それらはいっさい効果的なものとはならず、ただ後悔と苦しみだけが逼迫するのでした。
どうしてこのような対照的な結末となったのでしょうか?
2・よみでの後悔
23節の「よみ(ハデス)」とは死後に移される世界と考えられていました。いわゆるアブラハムを初めとする、神を信じる人々が引き上げられる天国とは別の場所です。金持ちは神の国には連れて行かれず、炎の中で渇きに苦しんでいます。彼はそこで初めてしたことが3つありました。1つ目は、初めて天を見上げたことです。「よみで苦しみながら目を上げると」(23節)、何とそこからはあのラザロが見えたのです。地上では考えつかないような光景がそこにはありました。2つ目は、初めて神の知識を知ったことです。炎の中で苦しんでいるとき、初めて彼は厳粛な神の知識について身をもって知ったのでした。3つ目は、彼が初めて自分の家族の救いを願ったことです。「お願いですから、ラザロを私の家族に送ってください・・・こんな苦しい場所に来ることがないように」(27〜28節)と懇願しました。それまで彼の家族はきっと彼と同じように毎日ぜいたくに暮らし、苦しみとは無縁の生活をしていたに違いありません。しかし、いざ自分が神の知識を知った時、彼は家族の救いについて切実に、緊急な願いとして持ち始めたのです。しかし、これらのいずれも「時すでに遅し」というのが、このたとえの鋭さになっています。
3・今、なすべきこととは?
金持ちは(死んでも金持ちと表現されざるを得ない貧しさが読み取れます)死んだラザロが生き返って「神は本当におられる。生きている間に永遠への備えをしなきゃだめだ」と言いに行ったなら、きっと家族は悔い改めるでしょうと頼みます。しかし、「モーセと預言者=聖書」に今、耳を傾けていないのであれば、どんな奇跡を目の当たりにしても彼らは聞き入れも、信じもしないと結びます。これをあなたはどのように読んでいるでしょうか?神はこのみことばを送って最大の警告を発しておられます。その時では、遅いのです。
 今、神を見上げ、受け入れ、家族の救いを祈る実践をしようではありませんか。

神に仕える

主日礼拝 2018年4月8日

聖書の言葉

イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。
「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
主人は、 彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい』
管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるがさてどうしよう。土を掘るには力がないし物ごいをするのは恥ずかしいし。ああ、 わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、 まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言うと、:6 その人は、『油百バテ』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい』と言った。それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、『小麦百コル』と言った。 彼は、『さあ、 あなたの証文だ。 八十と書きなさい』と言った。
この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、 自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
しもべは、 ふたりの主人に仕えることはできません。 一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません 」

「ルカの福音書16章1-18節」(抜粋)

牧師の言葉

1・抜け目のなさ(賢さ)をほめる主人
この箇所は、イエスさまのたとえ話の中でもある種異質な、理解の難しいところだとされています。ただ、たとえ話を読む時には、多くの意味が込められていると詳細をこじつける読み取り方ではなく、1つのテーマに沿うことが原則となっています。これは「不正な管理人のたとえ」として知られていますが、中心は不正な管理人が「抜け目なくやった(賢く行動した)」(8節)のをほめられた点です。不正するのが賞賛されているわけではなく、自分の悪事が主人にバレた雇われ管理人が、このピンチから自分を守るにはどうしたら良いのか、迅速に、いとも上手に行動したその必死とも言える思慮深さをほめているのです。「この世の子らは、自分たちの世について」いつも考えており、最優先して行動しています。ましてや、光の子ら=イエスの弟子たち・イエスを信じる者たちは、まことの神に対してそのような必死さ・熱心さ・緊迫感があるだろうか?という問いかけなのです。この世であぶれれば、それは大変なことです。この世で評判を落とそうものなら、必死になって挽回しようとします。同様に、まことの神に対して、さらに必死に、さらに熱心に行動することを促しています。
2・富の用い方
このたとえを受けて、イエスさまは「富の用い方」についてその方向を教えておられます。「不正の富で、自分のために友を作りなさい」(9節)。この「富」という言葉は単にお金だけを意味せず、13節で「神」と対比して使われているように、まことの神以外に気をそらせ、見つめさせ、没頭させる地上的な輝きのことを指します。短絡的、自己満足的な輝きに目を奪われ、まことの神に対して生きることを損じるなら、その損害こそ取り返しがつかなくなるというのです。それで、与えられた富(人生の元手となるお金、健康、身体、立場、賜物)は、不正なものに使わず、友を得るため=しかも「永遠の住まいに迎えてくれる」(9節)ことのために用いてこそ価値があるのだと言われるのです。このたとえの最初に、管理人は自分のために富を用いたとき、主人からその仕事を取り上げられそうになりました。しかし、富を、友を作るために用いたとき、主人はその必死さを認められたのです。私たちが、友のために、交わりのためにどれだけ与えたかを、主人は見ておられ、それを最も喜ばれるのです。
3・神に仕える
このたとえを聞きながら、パリサイ人たちは「あざ笑って」(14節)いました。彼らの聖書に対する知識や人前でなされる行為は「神の前で憎まれ、嫌われる」ものでした。なぜなら、彼らは「人の前で自分を正しいとする」(15節)生き方を追求していたからです。それは神に仕えているようで、実は「富」のために仕えている生き方なのです。自分が認められ、自分が賞賛され、自分に利益をもたらすものから、神が賛美され、神が知られ、神の友となるように委ねられた富を用いて生きましょう。

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