日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「「責任を問われる時代に」」

主日礼拝 2017年8月13日

イエスが話し終えられると、 ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家に入って、 食卓に着かれた。そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、 驚いた。
すると、 主は言われた。 「なるほど、 あなたがたパリサイ人は、 杯や大皿の外側はきよめるが、 その内側は、 強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
すると、 ある律法の専門家が、 答えて言った。 「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、 自分は、 その荷物に指一本さわろうとはしない。
それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。

「ルカの福音書11章37-54節」(抜粋)

牧師の言葉

■ 内にスポットを
イエスさまは様々な人と食事をされ、ここではパリサイ人に招かれています。そこで手を洗わずに食べ始めたことにパリサイ人は驚きました。それは衛生マナーというより儀式的なきよめのしきたりと違っていたからです。それに対してイエスさまは辛辣に「愚かな人たち」と答え始められました。それは人々が外側ばかりを重視して、肝心の内側は「強奪と邪悪でいっぱい」だからです。私たちは行いによって自分の立ち位置や評価を得られると安心します。またそれが人をさばく材料になったり、自己評価の原因にもなりえます。しかし、神との関係は内側に築かれてしかるべきだと言われます。イエスさまは神の国の真理を説き明かすためには、その人の顔色を伺うことをせずまっすぐにそれを明かされます。
■ 重荷を負わせないで
当時「墓」は触れるとけがれるとされていたので、白く塗られ不用意に触れないような処置がなされていました。しかし、パリサイ人たちが教えていた習わしは知らず知らずのうちに人をけがし、重荷を負わせるだけだと続けます。それで実に6回も「わざわいだ」という言葉を使って嘆かれています。人を活かすものではなく害を与え、重荷を負わせるものだからです。彼らに欠けていたのは主の目です。「目を造られた方がご覧にならないだろうか」(詩94:1)とあるように、創造主なる神は、私たちの外側はもとより内側をご覧にならないはずがないではないか。その内側、動機、内に秘めた思いをあなたは見られているという意識がるのですか?と神の御前に生きることを教えてくださいました。すべてを知られる神の前に生きるのは苦しいことでしょうか?さばかれ、無慈悲な支配者であればそうです。しかし、私たちの信じる神は「公義と愛」に満ちたお方です。御子イエスは、この神の愛と赦しの中で私たちが生きるようになることを願って話されています。重荷をおろして、内から主にお任せしたいと願います。これは、聖書の時代に生きる人だけでなく「神の知恵によって…この時代がその責任を問われる」ためでした。主は語りかけ、問いかけるお方です。私たちはこのお方の前で吟味し、告白をする責任のあることを忘れてはなりません。みことばの前にどのような決断をなさるでしょうか?

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聖書の言葉

「「新しく生まれる」」

主日礼拝 2017年8月6日

さて、 パリサイ人の中にニコデモという人がいた。 ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
イエスは答えられた。 「まことに、 まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、 あなたはその音を聞くが、 それがどこから来てどこへ行くかを知らない。 御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、 信じる者がみな、 人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

「ヨハネの福音書3章1-15節」(抜粋)

牧師の言葉

■ なにわともあれ新生を
イエスさまのもとには様々な人が訪れています。ここの箇所ではイスラエルの教師(聖書の専門家、指導者)であるニコデモが「夜」訪ねています。それは時間的な暗さと合わせて彼の霊的・信仰面の暗さも象徴しています。彼には救いが何であるか、イエスさまが誰であるのか分からなかったからです。そんなニコデモにイエスさまは「新しく生まれなければならない(born again)」と繰り返し説かれました。 それは指導者の立場や知識の豊富さ、経験の有無は関係がありません。かえってそれらは新生を邪魔するものにもなり得ます。ただ「新しく生まれる」ことこそが神の国を知り、神の国に入る必須の条件だと言われます。ただ老年だったニコデモには???それで「水と御霊によって生まれる」ことだと教えてくださいました。神を信じることは、自分の意志や決意よりも、心の変化という霊に属する事柄なのです。風が吹けども見えないように、神の御霊も見えずとも確かに働いて人を変えてくださるのです。
■ 受け入れる信仰
では、どうしたら信じられるようになるのでしょうか?それは、新生児を産むのが母親であるように、神が丁寧、熱心に導いて私たちを新生させてくださることにつきます。ただそれは、私たちの神への応答をもって示されます。旧約聖書の時代、イスラエルの民は荒野で不平を言ったため毒蛇に打たれました。それから癒やされるためには「青銅の蛇をあげ、それを仰ぎ見た者が生きる」(民21:8)と神は仰せられました。毒蛇への処置として仰ぎ見るよりも毒抜きや手当が有効と考えるのが自然でしょう。しかし、神の言葉を「受け入れる」ことはそれらの知恵に優ります。生きる唯一の道が神に従うことだからです。やがて蛇の替わりにイエスさまが十字架につけられます。それを仰ぎ見る者が救われるのです。

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「責任を問われる時代に」

主日礼拝 2017年8月13日

聖書の言葉

イエスが話し終えられると、 ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家に入って、 食卓に着かれた。そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、 驚いた。
すると、 主は言われた。 「なるほど、 あなたがたパリサイ人は、 杯や大皿の外側はきよめるが、 その内側は、 強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
すると、 ある律法の専門家が、 答えて言った。 「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、 自分は、 その荷物に指一本さわろうとはしない。
それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。

「ルカの福音書11章37-54節」(抜粋)

牧師の言葉

■ 内にスポットを
イエスさまは様々な人と食事をされ、ここではパリサイ人に招かれています。そこで手を洗わずに食べ始めたことにパリサイ人は驚きました。それは衛生マナーというより儀式的なきよめのしきたりと違っていたからです。それに対してイエスさまは辛辣に「愚かな人たち」と答え始められました。それは人々が外側ばかりを重視して、肝心の内側は「強奪と邪悪でいっぱい」だからです。私たちは行いによって自分の立ち位置や評価を得られると安心します。またそれが人をさばく材料になったり、自己評価の原因にもなりえます。しかし、神との関係は内側に築かれてしかるべきだと言われます。イエスさまは神の国の真理を説き明かすためには、その人の顔色を伺うことをせずまっすぐにそれを明かされます。
■ 重荷を負わせないで
当時「墓」は触れるとけがれるとされていたので、白く塗られ不用意に触れないような処置がなされていました。しかし、パリサイ人たちが教えていた習わしは知らず知らずのうちに人をけがし、重荷を負わせるだけだと続けます。それで実に6回も「わざわいだ」という言葉を使って嘆かれています。人を活かすものではなく害を与え、重荷を負わせるものだからです。彼らに欠けていたのは主の目です。「目を造られた方がご覧にならないだろうか」(詩94:1)とあるように、創造主なる神は、私たちの外側はもとより内側をご覧にならないはずがないではないか。その内側、動機、内に秘めた思いをあなたは見られているという意識がるのですか?と神の御前に生きることを教えてくださいました。すべてを知られる神の前に生きるのは苦しいことでしょうか?さばかれ、無慈悲な支配者であればそうです。しかし、私たちの信じる神は「公義と愛」に満ちたお方です。御子イエスは、この神の愛と赦しの中で私たちが生きるようになることを願って話されています。重荷をおろして、内から主にお任せしたいと願います。これは、聖書の時代に生きる人だけでなく「神の知恵によって…この時代がその責任を問われる」ためでした。主は語りかけ、問いかけるお方です。私たちはこのお方の前で吟味し、告白をする責任のあることを忘れてはなりません。みことばの前にどのような決断をなさるでしょうか?

「新しく生まれる」

主日礼拝 2017年8月6日

聖書の言葉

さて、 パリサイ人の中にニコデモという人がいた。 ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
イエスは答えられた。 「まことに、 まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、 あなたはその音を聞くが、 それがどこから来てどこへ行くかを知らない。 御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、 信じる者がみな、 人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

「ヨハネの福音書3章1-15節」(抜粋)

牧師の言葉

■ なにわともあれ新生を
イエスさまのもとには様々な人が訪れています。ここの箇所ではイスラエルの教師(聖書の専門家、指導者)であるニコデモが「夜」訪ねています。それは時間的な暗さと合わせて彼の霊的・信仰面の暗さも象徴しています。彼には救いが何であるか、イエスさまが誰であるのか分からなかったからです。そんなニコデモにイエスさまは「新しく生まれなければならない(born again)」と繰り返し説かれました。 それは指導者の立場や知識の豊富さ、経験の有無は関係がありません。かえってそれらは新生を邪魔するものにもなり得ます。ただ「新しく生まれる」ことこそが神の国を知り、神の国に入る必須の条件だと言われます。ただ老年だったニコデモには???それで「水と御霊によって生まれる」ことだと教えてくださいました。神を信じることは、自分の意志や決意よりも、心の変化という霊に属する事柄なのです。風が吹けども見えないように、神の御霊も見えずとも確かに働いて人を変えてくださるのです。
■ 受け入れる信仰
では、どうしたら信じられるようになるのでしょうか?それは、新生児を産むのが母親であるように、神が丁寧、熱心に導いて私たちを新生させてくださることにつきます。ただそれは、私たちの神への応答をもって示されます。旧約聖書の時代、イスラエルの民は荒野で不平を言ったため毒蛇に打たれました。それから癒やされるためには「青銅の蛇をあげ、それを仰ぎ見た者が生きる」(民21:8)と神は仰せられました。毒蛇への処置として仰ぎ見るよりも毒抜きや手当が有効と考えるのが自然でしょう。しかし、神の言葉を「受け入れる」ことはそれらの知恵に優ります。生きる唯一の道が神に従うことだからです。やがて蛇の替わりにイエスさまが十字架につけられます。それを仰ぎ見る者が救われるのです。

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