日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「主のことばにたどりつく」

主日礼拝 2018年1月7日

これらのことがあって後、 この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。
彼女はエリヤに言った。 「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
彼は彼女に、 「あなたの息子を私によこしなさい」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、 その子を自分の寝台の上に横たえた。
彼は主に祈って言った。「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」
主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。
そこで、エリヤはその子を抱いて、 屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した。そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」
その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」

「第一列王記17章17-24節』

牧師の言葉

◆神とぶつかる
この17章から神の人と呼ばれる預言者エリヤが登場します。前半ではカラスややもめに養われる経験をしたエリヤですが、エリヤとやもめの物語は粉や油が尽きない奇跡だけで終わりませんでした。何とその後一人息子が病に冒され、息を引き取ってしまったのです。母親にとっては天国から地獄。エリヤにむかって「本当に神の人なんですか?息子を死なせるためにやって来たのですか?」と当たり散らすように嘆きます。聖書は模範通りの人物を集めた書物ではありません。通常の人生を営む人間と同じように、試練に遭い、病に苦しみ、親しい人の死にうろたえ、そして、神に叫ぶのです。この神にぶつかるということを、聖書は奨励しているようにも思えます。このやもめが食料の奇跡で終わらなかった意味はここにあるのではないでしょうか。私たちも苦しむ時は神にぶつかりましょう。なぜ、どうしてと時には強い言葉を使ってでも、神とぶつかり、そしてつながることは大切です。
◆単純に祈る
やもめは、エリヤに当たりました。エリヤは「息子を死なせたのはなぜですか」と母親と同じ言葉で祈ります。祈祷課題をそのまま受け止めたのです。しかも、エリヤはその場だけでなく、息子を受取り、抱きかかえて屋上の部屋で身を重ねて祈りました。もし、私たちが他者の祈りの課題をここまで丁寧に扱ったならば、もっと多くの祈りが聞かれるような励ましがあります。よく読むと、エリヤは母親に詳細を尋ねていません。「いつから?」「かかりつけ医は?」とは問いません。ただ単純に「いのちを返してください」とだけ繰り返し祈っています。私たちの間でも同じではないでしょうか。相手の詳細を事細かに知っているから、その人のためによく祈れるようになるのでしょうか?反対かもしれません。実情や内実を知れば知る程、他のことが気になって、神さまだけにぶつかっていくことが難しく感じるからです。重要なのは私たちが詳細を把握することよりも、いっさいをご存知である主に向かって祈ることだからです。母親はそうしたエリヤの祈りを経て主のことばの真実にたどり着きました。神にぶつかってよいこと、叫びをそのまま祈ってあげること、主のことばには実現に至る力のあること。神との交わりがますます豊かにされますように。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

主のことばにたどりつく

主日礼拝 2018年1月7日

聖書の言葉

これらのことがあって後、 この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。
彼女はエリヤに言った。 「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
彼は彼女に、 「あなたの息子を私によこしなさい」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、 その子を自分の寝台の上に横たえた。
彼は主に祈って言った。「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」
主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。
そこで、エリヤはその子を抱いて、 屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した。そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」
その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」

「第一列王記17章17-24節』

牧師の言葉

◆神とぶつかる
この17章から神の人と呼ばれる預言者エリヤが登場します。前半ではカラスややもめに養われる経験をしたエリヤですが、エリヤとやもめの物語は粉や油が尽きない奇跡だけで終わりませんでした。何とその後一人息子が病に冒され、息を引き取ってしまったのです。母親にとっては天国から地獄。エリヤにむかって「本当に神の人なんですか?息子を死なせるためにやって来たのですか?」と当たり散らすように嘆きます。聖書は模範通りの人物を集めた書物ではありません。通常の人生を営む人間と同じように、試練に遭い、病に苦しみ、親しい人の死にうろたえ、そして、神に叫ぶのです。この神にぶつかるということを、聖書は奨励しているようにも思えます。このやもめが食料の奇跡で終わらなかった意味はここにあるのではないでしょうか。私たちも苦しむ時は神にぶつかりましょう。なぜ、どうしてと時には強い言葉を使ってでも、神とぶつかり、そしてつながることは大切です。
◆単純に祈る
やもめは、エリヤに当たりました。エリヤは「息子を死なせたのはなぜですか」と母親と同じ言葉で祈ります。祈祷課題をそのまま受け止めたのです。しかも、エリヤはその場だけでなく、息子を受取り、抱きかかえて屋上の部屋で身を重ねて祈りました。もし、私たちが他者の祈りの課題をここまで丁寧に扱ったならば、もっと多くの祈りが聞かれるような励ましがあります。よく読むと、エリヤは母親に詳細を尋ねていません。「いつから?」「かかりつけ医は?」とは問いません。ただ単純に「いのちを返してください」とだけ繰り返し祈っています。私たちの間でも同じではないでしょうか。相手の詳細を事細かに知っているから、その人のためによく祈れるようになるのでしょうか?反対かもしれません。実情や内実を知れば知る程、他のことが気になって、神さまだけにぶつかっていくことが難しく感じるからです。重要なのは私たちが詳細を把握することよりも、いっさいをご存知である主に向かって祈ることだからです。母親はそうしたエリヤの祈りを経て主のことばの真実にたどり着きました。神にぶつかってよいこと、叫びをそのまま祈ってあげること、主のことばには実現に至る力のあること。神との交わりがますます豊かにされますように。

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