日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「「疑わないで信じる 〜理性を超えて〜」」

主日礼拝 2019年4月14日

二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。
そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。
これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。

「ルカの福音書24章33-43節」

牧師の言葉

1. 知らせを受けても疑う
死から復活されたその日の朝からイエスさまは、女性たち、シモン・ペテロ、クレオパともう一人に現れ、彼らが報告したにもかかわらず、他の使徒たちは信じられませんでした。物事を立証する場合、まったく異なるところから証言を取り、それらが一致しているかが証拠材料となります。イエスさまの復活は、色々な場所で違った人物によって目撃されており、立証は十分です。しかし、それらを総合しても信じる者は現れませんでした。これはまだ神さまからの証拠のしるしが足りないからでしょうか?それとも、人間の理性や常識に壁があるのでしょうか?もちろん、見ることによって確かめることは重要なことです。ないものを闇雲に信じさせようというのは神さまの望むやり方ではありません。しかし見てはいなくても証言によって信じるのは神さまの望まれるやり方だと言えます。まさに「見ないで信じる人たちは幸い」(ヨハネ20:29)、「信仰は・・・目に見えないものを確信させるもの」(ヘブル11:1)とある通りです。
2. 理性について
では、信仰が見えないものを確信するものとは、どういうことを私たちに求めているのか、また反対にどういうことを求めていないのかを整理しておきましょう。神さまが私たちに求めておられるのはイエスの復活を信じよ、ということです。たとえ直接見ていなくても、証言者とその記録(聖書)によって信じることを求めておられます。また、反対に「ありもしないこと」を信じよ、と求められてはいません。私たちの理性を超えたことを信じよと言ってはいても、理性に反したことを信じよとは言っておられないことに注意しましょう。確かに、復活を信じることは容易ではないにしても、それは理性に反してはいません。なぜなら、復活されたイエスさまは復活したからだをもって現れ、手と足を見せておられるからです。それは理性を超えてはいても、実際に起きたことです。弟子たちはこれらのことの証人です。大事なのは、弟子たちは理性に反した出来事や偽証せよとここで脅迫されたり、洗脳されたりしたわけではないということです。
3. 神からの平安
複数の証言にもかかわらず信じることのできないでいた使徒たちの真ん中にイエスさまは現れます。ヨハネ20章では「戸に鍵がかけられた」部屋に来られたとありますから、おそらくここでも突然来られたことでしょう。震え上がった弟子たちを落ち着かせるために、焼いた魚を食して証明し、安心させようとしてくださいました。幽霊(原語:霊)ではなく、からだをもって復活されたことをまざまざとお見せになったのです。ここでようやく弟子たちは「喜び」ます。本当にイエスさまがよみがえったことがわかったからです。疑いや理性の壁を乗り越えるのに必要なのは何でしょうか?イエスさまはここで第一声「平安があるように」と言われました。理性を超えたことを信じるとき、それは不思議にも神の平安がその人にあり、その人を包むと言うのです。信じる者は愚かや盲目なのではなく、証人と証言(=聖書)を根拠に信じるよう導かれた者には、神の平安が与えられます。そして次は堂々とこの復活のイエスを証言する者へと変えられていくのです。理性に反してではなく、理性を超えて。信仰を大きく広げていただきましょう。

▲ このページの先頭へ

聖書の言葉

「「落ち込み、燃やされ、開かれ」」

主日礼拝 2019年4月7日

ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」

そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

「ルカの福音書24章13-32節」(抜粋)

牧師の言葉

1. 暗い顔をした二人
イエスさまがよみがえられたら世界はそのニュース一色・・・というわけではなかったことをこの箇所は冷静に語ります。女たちの証言も使徒たちには「たわごと」に思われそれを信じませんでした。ここでは主イエスが復活されたその日、別の二人の弟子(クレオパともうひとりの名は明かされず)たちが話し合う場面です。これは行き先から「エマオ途上」として知られていますが、ここで復活のイエスとの出会いについて大切なことを教えています。二人は十字架と復活の出来事について知っておりそれらについて「話し合い論じ合って」いました。そこにイエスさまが来られますが、二人にはそれが誰であるのかわからずエルサレムでの出来事について知らせます。この時の彼らの表情は「暗い顔」(17節)でした。彼らは復活が起こったにもかかわらずそれを信じず、エルサレムから離れて行き、議論に埋没していたのです。女性たちの証言を聞いても信じられず、以前と変わらない生活か、あるいはイエスさまの弟子であった頃から退化するような状態です。ひとたび復活の知らせを聞いてもすぐには信じられない。それは私たちにも共通する性質だと思うのです。しかし、そんな彼らを選ぶかのようにしてイエスさまは現れました。
2. 共に歩き、説き明かすイエス
道行く彼らの間に近づいたイエスさまは彼らが何について話しているのか尋ねられます。心が鈍く、煮え切らない彼らを切り捨てることなく、そばに来てくださるお方です。未熟な彼らのように、もしあなたがまだイエスの復活について確信が持てていないとしたら、そんな人にこそ、今イエスさまはかたわらに来られてあなたの話に耳を傾け、歩調を合わせてくださるお方なのです。そしてイエスさまがされたことは「聖書全体からご自分について説き明かす」ことでした。手のひらを見せたり、復活のからだを誇ったりするのではなく、よみがえったイエスさまは聖書を説き明かされました。何よりも優先してそのことをされた点に目を留めたいと思います。実物のイエスさまを見るよりも、聖書全体からイエスさまを明らかにすることの方を優先されたということです。それゆえ、今私たちが礼拝で聖書の説き明かしに集中することは、この時のエマオ途上の場面の再現であり、何より復活のイエスさまがもっとも願っておられる時間でもあるのです。
3. 目が開かれた二人
その後使徒たちはイエスさまを引き止めて宿に誘います。食卓に着くとイエスさまがパンを裂いて渡された時、彼らの目が開かれイエスさまだと分かりました。その瞬間、その姿は見えなくなります。いっしょにパンを食べた時、彼らにイエスさまがはっきりとわかりました。教会で行う聖餐式にもこのリアリティーにあふれるものであればと願います。確かにイエスさまが血を流し十字架で死に、よみがえっていのちのパンを分け与えてくださる救い主であることを聖書の説き明かしと聖餐式によって確信が持てるようになりたいのです。イエスの復活を信じた彼らはもう目でイエスさまを見る必要はなくなりました。私たちも同じ信仰をいだきたく願います。すなわち、暗い顔で沈んでいてもそっと近づいてくださるイエスさまに気づき、論じ合い主張し合うよりもイエスさまのことばを聴いて酔いしれ、目が開かれて喜び勇んで再び歩みだす。そんな春のスタートを、イエスさまに手を引いていただいて初めてまいりましょう。

▲ このページの先頭へ

日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

「疑わないで信じる 〜理性を超えて〜」

主日礼拝 2019年4月14日

聖書の言葉

二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。
そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。
これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。

「ルカの福音書24章33-43節」

牧師の言葉

1. 知らせを受けても疑う
死から復活されたその日の朝からイエスさまは、女性たち、シモン・ペテロ、クレオパともう一人に現れ、彼らが報告したにもかかわらず、他の使徒たちは信じられませんでした。物事を立証する場合、まったく異なるところから証言を取り、それらが一致しているかが証拠材料となります。イエスさまの復活は、色々な場所で違った人物によって目撃されており、立証は十分です。しかし、それらを総合しても信じる者は現れませんでした。これはまだ神さまからの証拠のしるしが足りないからでしょうか?それとも、人間の理性や常識に壁があるのでしょうか?もちろん、見ることによって確かめることは重要なことです。ないものを闇雲に信じさせようというのは神さまの望むやり方ではありません。しかし見てはいなくても証言によって信じるのは神さまの望まれるやり方だと言えます。まさに「見ないで信じる人たちは幸い」(ヨハネ20:29)、「信仰は・・・目に見えないものを確信させるもの」(ヘブル11:1)とある通りです。
2. 理性について
では、信仰が見えないものを確信するものとは、どういうことを私たちに求めているのか、また反対にどういうことを求めていないのかを整理しておきましょう。神さまが私たちに求めておられるのはイエスの復活を信じよ、ということです。たとえ直接見ていなくても、証言者とその記録(聖書)によって信じることを求めておられます。また、反対に「ありもしないこと」を信じよ、と求められてはいません。私たちの理性を超えたことを信じよと言ってはいても、理性に反したことを信じよとは言っておられないことに注意しましょう。確かに、復活を信じることは容易ではないにしても、それは理性に反してはいません。なぜなら、復活されたイエスさまは復活したからだをもって現れ、手と足を見せておられるからです。それは理性を超えてはいても、実際に起きたことです。弟子たちはこれらのことの証人です。大事なのは、弟子たちは理性に反した出来事や偽証せよとここで脅迫されたり、洗脳されたりしたわけではないということです。
3. 神からの平安
複数の証言にもかかわらず信じることのできないでいた使徒たちの真ん中にイエスさまは現れます。ヨハネ20章では「戸に鍵がかけられた」部屋に来られたとありますから、おそらくここでも突然来られたことでしょう。震え上がった弟子たちを落ち着かせるために、焼いた魚を食して証明し、安心させようとしてくださいました。幽霊(原語:霊)ではなく、からだをもって復活されたことをまざまざとお見せになったのです。ここでようやく弟子たちは「喜び」ます。本当にイエスさまがよみがえったことがわかったからです。疑いや理性の壁を乗り越えるのに必要なのは何でしょうか?イエスさまはここで第一声「平安があるように」と言われました。理性を超えたことを信じるとき、それは不思議にも神の平安がその人にあり、その人を包むと言うのです。信じる者は愚かや盲目なのではなく、証人と証言(=聖書)を根拠に信じるよう導かれた者には、神の平安が与えられます。そして次は堂々とこの復活のイエスを証言する者へと変えられていくのです。理性に反してではなく、理性を超えて。信仰を大きく広げていただきましょう。

「落ち込み、燃やされ、開かれ」

主日礼拝 2019年4月7日

聖書の言葉

ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」

そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

「ルカの福音書24章13-32節」(抜粋)

牧師の言葉

1. 暗い顔をした二人
イエスさまがよみがえられたら世界はそのニュース一色・・・というわけではなかったことをこの箇所は冷静に語ります。女たちの証言も使徒たちには「たわごと」に思われそれを信じませんでした。ここでは主イエスが復活されたその日、別の二人の弟子(クレオパともうひとりの名は明かされず)たちが話し合う場面です。これは行き先から「エマオ途上」として知られていますが、ここで復活のイエスとの出会いについて大切なことを教えています。二人は十字架と復活の出来事について知っておりそれらについて「話し合い論じ合って」いました。そこにイエスさまが来られますが、二人にはそれが誰であるのかわからずエルサレムでの出来事について知らせます。この時の彼らの表情は「暗い顔」(17節)でした。彼らは復活が起こったにもかかわらずそれを信じず、エルサレムから離れて行き、議論に埋没していたのです。女性たちの証言を聞いても信じられず、以前と変わらない生活か、あるいはイエスさまの弟子であった頃から退化するような状態です。ひとたび復活の知らせを聞いてもすぐには信じられない。それは私たちにも共通する性質だと思うのです。しかし、そんな彼らを選ぶかのようにしてイエスさまは現れました。
2. 共に歩き、説き明かすイエス
道行く彼らの間に近づいたイエスさまは彼らが何について話しているのか尋ねられます。心が鈍く、煮え切らない彼らを切り捨てることなく、そばに来てくださるお方です。未熟な彼らのように、もしあなたがまだイエスの復活について確信が持てていないとしたら、そんな人にこそ、今イエスさまはかたわらに来られてあなたの話に耳を傾け、歩調を合わせてくださるお方なのです。そしてイエスさまがされたことは「聖書全体からご自分について説き明かす」ことでした。手のひらを見せたり、復活のからだを誇ったりするのではなく、よみがえったイエスさまは聖書を説き明かされました。何よりも優先してそのことをされた点に目を留めたいと思います。実物のイエスさまを見るよりも、聖書全体からイエスさまを明らかにすることの方を優先されたということです。それゆえ、今私たちが礼拝で聖書の説き明かしに集中することは、この時のエマオ途上の場面の再現であり、何より復活のイエスさまがもっとも願っておられる時間でもあるのです。
3. 目が開かれた二人
その後使徒たちはイエスさまを引き止めて宿に誘います。食卓に着くとイエスさまがパンを裂いて渡された時、彼らの目が開かれイエスさまだと分かりました。その瞬間、その姿は見えなくなります。いっしょにパンを食べた時、彼らにイエスさまがはっきりとわかりました。教会で行う聖餐式にもこのリアリティーにあふれるものであればと願います。確かにイエスさまが血を流し十字架で死に、よみがえっていのちのパンを分け与えてくださる救い主であることを聖書の説き明かしと聖餐式によって確信が持てるようになりたいのです。イエスの復活を信じた彼らはもう目でイエスさまを見る必要はなくなりました。私たちも同じ信仰をいだきたく願います。すなわち、暗い顔で沈んでいてもそっと近づいてくださるイエスさまに気づき、論じ合い主張し合うよりもイエスさまのことばを聴いて酔いしれ、目が開かれて喜び勇んで再び歩みだす。そんな春のスタートを、イエスさまに手を引いていただいて初めてまいりましょう。

▲ページの先頭へ