メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「あなたに会わなければならない」

主日礼拝 2012年1月29日

ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。

イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。

(ルカの福音書 19章1〜10節 抜粋)

牧師の言葉

◆神と出会う 
 この聖書箇所は、ザアカイという人とイエスさまとの出会いの場面です。彼の仕事は「取税人」で、当時ユダヤの人々からは大変嫌われていました。人々から好きなだけ税を取って私腹を肥やし、ローマ帝国に仕えていたからです。
 そんなザアカイが住むエリコの町にイエスさまがやって来るのがこの場面です。当日、ザアカイもイエスさまを一目見ようと出かけるのですが「群衆」のために見ることが出来ません。しかも「背が低かったので」とあります。群衆は背の低いザアカイをぞんざいに扱い、わざと見られないよう邪魔をして日頃のうっぷんを晴らしていたのです。それでも、ザアカイはあきらめきれず、皆の前に走り出て、いちじく桑の木によじ登ります。このあたりの熱心さは見習いたいものです。どんなに落ち込み、虐げられたとしても「イエスさまに会いたい」心を失っては何も始まりません。

◆救いがやって来る
 よじ登ったザアカイに対し、イエスさまは「そこを通り過ぎようとして」いたところでしたが、次の瞬間、「上を見上げて・・・降りて来なさい」と招きます。まるで、ザアカイのこれまでの苦々しい人生、歯車が狂ってしまった問題ある人生を受け止めるように、下からイエスさまは呼ばれました。さらに「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と。
 これはまさにイエスさまの必然であることが知らされました。偶然の出会いではない。イエスさまはザアカイに、そしてあなたに「会わなければならない」と呼んでおられるのです。
 急いで木から降りたザアカイは、イエスさまと向き合う出会いが与えられ、生き方が変えられました。しかも義務や使命感からではなく「大喜び」でそうしたのです。イエスさまはザアカイにしたように、あなたのすべてを受けとめ、あなたも神の子どもだよと救いのメッセージを聞かせ、あなたがしがみついてきたものから降りてくるのを待っておられます。
 急いで降りて来て、喜んでイエスさまを心に迎え入れませんか。その時から、天国へ向けて平安の日々が始まるのです。しかも喜びの日々が!

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聖書の言葉

「悩みと望み」

主日礼拝 2012年1月22日

49 どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。
50 これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。
51 高ぶる者どもは、ひどく私をあざけりました。しかし私は、あなたのみおしえからそれませんでした。
52 主よ。私は、あなたのとこしえからの定めを思い出し、慰めを得ました。
53 あなたのみおしえを捨てる悪者どものために、激しい怒りが私を捕らえます。
54 あなたのおきては、私の旅の家では、私の歌となりました。
55 主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、また、あなたのみおしえを守っています。
56 これこそ、私のものです。私があなたの戒めを守っているからです。
57 主は私の受ける分です。私は、あなたのことばを守ると申しました。
58 私は心を尽くして、あなたに請い求めます。どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください。
59 私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。
60 私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。
61 悪者の綱が私に巻き付きましたが、私は、あなたのみおしえを忘れませんでした。
62 真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します。
63 私は、あなたを恐れるすべての者と、あなたの戒めを守る者とのともがらです。
64 主よ。地はあなたの恵みに満ちています。あなたのおきてを私に教えてください。

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牧師の言葉

◆悩み怒りを断ち切る剣 
 この最初の段落では「悩み」や「激しい怒り」に出会った時、神の信仰者はどのように生きるべきなのかを教えています。この49-56節は「(ザイン)」という原語の文字で始まっていて【剣、槍】を意味します。悩みの限界には脱力し、怒りの頂点に達した時にはキレてしまう私たちですが、ここではそのような時「みことば」「みおしえ」を思い出しなさいと語られています。
 剣は相手にトドメを刺すためのものです。槍も一撃で敵を葬る威力のある武器です。そして、私たちが悩む時は神のことばこそが悩みを断ち切る剣となり、私たちが怒る時は神の教えこそが怒りを鎮める槍となるのです。
 「悩み」や「怒り」は、自分の願いとは違う時に起こるという共通点があります。自分の願い通りにならないと思い悩み、怒るものです。しかし、ある牧師は「願いは人間の幻想の中に、望みは神の約束の内にあります」(E.Peterson)とここで説明していました。この悩み、怒りの時にも神が働いてくださると信じ満ち足りた生活を目指したいと願います。

◆柵の中で過ごす幸い
 続く段落57-64節は「(ヘース)」という原語文字で始まり「柵」を意味します。時には悪者の綱が足に巻き付き、本当の正しさとは何かを求めながらさまよい歩くこともあることでしょう。それでも59節では「自分の道を顧みて、あなたに足を向けました」とあります。それも「急いで、ためらわずに」(60節)しますと。なぜなら、自分の願いではなく神の約束が成就すると信じる人は裏切られることがないからです。いつも「自分の道(=自分の願い)」を顧みて「神のさとし(定め)」にその足を向けるなら、悪い惑わしや敵が多いと悩んでいる渦中でも「地はあなたの恵みで満ちています」(64節)と新たな発見が出来るのです。恵みは天の上にしかないのではなく、この地で神と共に進む人の上に豊かに注がれるものなのです。

 自分の思い煩いや悩みをあなたは何に頼って解決へと求めて行きますか?自分の考えや力には限界があり、その先をご存知の神のことばに頼る謙遜な心こそが望みの第一歩です。

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聖書の言葉

「窓を開けなさい」

主日礼拝 2012年1月15日

33 主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう。
34 私に悟りを与えてください。私はあなたのみおしえを守り、心を尽くしてそれを守ります。
35 私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。
36 私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。
37 むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。
38 あなたのことばを、あなたのしもべに果たし、あなたを恐れるようにしてください。
39 私が恐れているそしりを取り去ってください。あなたのさばきはすぐれて良いからです。
40 このとおり、私は、あなたの戒めを慕っています。どうかあなたの義によって、私を生かしてください。
41 主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。
42 こうして、私をそしる者に対して、私に答えさせてください。私はあなたのことばに信頼していますから。
43 私の口から、真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私は、あなたのさばきを待ち望んでいますから。
44 こうして私は、あなたのみおしえをいつも、とこしえまでも、守りましょう。
45 そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。
46 私はまた、あなたのさとしを王たちの前で述べ、しかも私は恥を見ることはないでしょう。
47 私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。
48 私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう。

(詩篇119篇33〜48節)

牧師の言葉

◆信仰は行為になる 
 私たちの「信じる」行為はとてつもない力を秘めています。あえて「信じる行為」と書いたのは、この詩篇を肌に触れて感じるためです。33節から続くのは、神との対話です。それも一方的に神に「〜してください」とねだるだけでなく、必ずそのすぐあとに「私は守ります」「私は喜んでいます」と信仰者の意気込みが続いていることに気づきます。どうしても信じていきたいのですと祈れるなら、それは信仰が行為になった証しです。【もしこのことが起きたら信じます】というのであればそれは信仰ではなく認知にすぎません。そこから信じる行為は生まれずに、ただ人間の目で見たものにしか触れることも、感じることも、知ることもできません。この33-40節はすべて「(ヘー)」という原語の文字で始まっていて、それは「窓」を意味します。神はあなたが今日こそ「窓を開ける」ように信仰の窓を開くことを願っておられます。神とともに生きる、神の計画に生きる窓を開けるなら、必ず恵みを取り込んで生きられます。

◆釘を刺される
 次の41-48節は「(ワウ)」という文字で始まり「釘」を意味します。特に43節には「私の口から真理のことばを取り去ってしまわないでください」と懇願しています。私たちが神のことばを忘れ、軽く見るなら、すぐさま人を恐れ、狭い所に追いやられることを知っているからです。「みおしえを、いつも、とこしえまでも守りましょう」と信仰を行為に移すことを願っているのです。
 なぜ、神は他でもないあなたを選んで、ご自身のものとされようとしているのでしょう。あなたの何が見初められ、期待されて神はあなたのたましいを捕らえようとされているのでしょう。それは、あなたに「恵みと救い」をもたらすためです。そのために迷うことがないよう「釘を刺して」でもあなたをとどめようとされるのです。ここまで愛されるのは幸せなことです。

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聖書の言葉

「1度の人生、1つのゴール」

主日礼拝 2012年1月8日

17 あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。
18 私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。
19 私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。
20 私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。
21 あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、のろわるべき者をお叱りになります。
22 どうか、私から、そしりとさげすみとを取り去ってください。私はあなたのさとしを守っているからです。
23 たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合ってもあなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。
24 まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。

25 私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。
26 私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。
27 あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。
28 私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください。
29 私から偽りの道を取り除いてください。あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください。
30 私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。
31 私は、あなたのさとしを堅く守ります。主よ。どうか私をはずかしめないでください。
32 私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。

(詩篇119篇17〜32節)

牧師の言葉

《地上では旅人》 
 最初の段落、17-24節は「(ギメル)」という文字からすべての節が始まっていて、【らくだ】のかたちを表します。特に19節の「私は地上では旅人です」はらくだに乗って旅をするイメージがわいて来ます。この詩を書いた信仰者は自分を「あなた(神)のしもべ」(17,23節)と言い切っています。私たちのこの地上の生涯は旅のようなものであり、自分はその行程のすべてを知るわけではないのだから、しもべのように主人の言われる言葉に耳を傾けて従わなければ、迷い出てしまう存在であることをわきまえていました。迷う原因は「あなたの仰せから迷い出る高ぶる者」(21節)だからです。たった1度の人生はすぐに過ぎ去りますが、それを永遠に価値あるものにする唯一の道があります。それは、この旅を神と共に歩むことです。自分の思い願いではなく、神のことば、仰せ=聖書に慰めと希望を見出しつつ行くのです。

《みことばのとおりに》
 次の25-32節は「(ダレット)」で【扉】を表します。旅路には、数々の扉を開いていく必要があります。時には「ちりに打ち伏して」(25節)しまうほどの落胆や失望に出会うこともあります。けれどこの地上では旅人に過ぎないことを思い出し、神からのレッスンをしっかりと受けとめましょう。このように私たちが「真実の道を選び取る」(30節)ように求められています。どんな時にも、神のみことばに従う人は真実な道を選択する人です。神から離れては意味なくむなしさが増すだけです。しかし、神を仰ぐ人の心は打ち付せっていてもやがて広げられ、その道を「走る」ことができるよう力づけられます。
 今、あなたが行こうとしている道は真実な選択でしょうか。神が共におられ、神の望まれる道でしょうか。この世の旅路ではいつも天に目を向けて、次の一歩が真実で、祝福の扉を開けるものであるようにと願います。

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聖書の言葉

「最善のお方にかける人生」

主日礼拝 2012年1月1日

1.幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。
2.幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。
3.まことに、彼らは不正を行わず、主の道を歩む。
4.あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。
5.どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。
6.そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。
7.あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感謝します。
8.私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。

9.どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。
10.私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。
11.あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。
12.主よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。
13.私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。
14.私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。
15.私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。
16.私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。

(詩篇119篇1〜16節)

牧師の言葉

《始まりにふさわしいことば》 
 「私を幸せにしてください」と祈り願ったことがあるでしょうか。学業や仕事や人間関係や将来について「このようになったらいいなあ」「明日がこうだったらいいなあ」と願うことは普通にあるでしょう。
 今年の初め、共に味わう詩篇119篇は「幸いなことよ」で始まります。それに続くのは「○○を持つ人」「□歳まで生きる人」「△△に遭わない人」という表現ではなく「行く人々」「歩む人々」「尋ね求める人々」と、生きる様子が続きます。神さまが教える「幸い」とは、起こった出来事や所有物、人生の長さや早さには基づかず、どれだけ神と共に生きているかに着目しているのです。実は、この詩篇119篇の原語は「アルファベット順」になっていて、8節ごとに頭文字が変わる、精巧な歌なのです。荒れ狂う世の中、浮き沈みの中に生きる私たちに、確かな道へと神さまは導いてくださるお方なのです。

《神の人になろう》
 はじめの1-8節は「(アレフ)」」という英語のAに当たる言葉で始まっています。この文字は雄牛を表します。旧約聖書時代、雄牛は礼拝でささげられる貴重ないけにえでした。それに用いられるのは大変光栄なことです。私たちが、自分の願いではなく、神の願い、神の望まれることのために用いられるなら、それは大変意義深いことです。
 続く9-16節は「(ベート)」で「家」を表します。神へささげる礼拝が、神殿や教会だけでなくあなたの誕生から死までを過ごす「家」においても続くようにとの神さまからの願いが込められているのです。それぞれの節には「みおしえ」「さとし」「道」「おきて」「戒め」「ことば」など神さまの御心を表す語がことごとく刻まれています。これをわずらわしく退けるのではなく「たくわえ」「楽しみ」「喜びと」する年であればと願うものです。
 今年も「これが道だ」とおっしゃる最善のお方に自分を人生をかけて、毎週最高の礼拝をそのお方にささげていこうではありませんか!

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聖書の言葉

「神が演出するクリスマス」

主日礼拝 2011年12月25日

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が皇帝アウグストから出た。
それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっているいいなづけのマリアもいっしょに登録するためであった。
ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

(「ルカの福音書」2章1-7節(抜粋))

牧師の言葉

■世界中が動き始める 
 上の場面は世界ではじめのクリスマスです。ルカ2章はローマ皇帝、シリヤ総督からの勅令から始まって、人々が登録のために動き出すところから書き始めています。「クリスマス」という神さまの特別なご計画の始まりにしては、いかにも世的で、他の歴史的な出来事と変わり映えがしません。旧約時代から待望された「メシヤ(救い主)」がついに来られる時ですから、奇跡を起こして輝かしく演出されても良いのではないでしょうか。しかし、まったく神の素晴らしい計画が始まるなどという期待を抱くことができないようなスキがない始まりです。その証拠に、人々は有無を言わさず「みな、登録のために・・・向かって行った」とあります。ヨセフとマリアも例外ではありませんでした。身重になっているマリアを連れてナザレからベツレヘムまで120キロの道のりをろばに乗って旅をしていたのです。これは実に平凡な夫婦の描写です。課題と不安がある旅路でした。私たちの日常にも通ずるものがあるかもしれません。どこに神の介入があり、いつ神の計画が動き出すのか分かりません。けれどクリスマスはすでに始まっているのです。とっても静かに。
■ 彼らのいる場所がなかった
 二人が「ベツレヘムにいる間」に月が満ち、主イエスの出産となりました。産み落とされたのは「飼葉おけ」であり、その理由は「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」とはっきりと記されています。ヨセフとマリアは「クリスマスおめでとう」どころではなく、ストレス・孤独感・疲労感・ため息・疑問に満ちていたクリスマスを迎えていたことでしょう。これが最初のクリスマスでした。救いはどこに?神は沈黙している?恵みはどこ?そう考えて当然の出来事です。しかしその真ん中にこそ、イエスさまがおられるのです!飼葉おけという屈辱的で冷たい場所に。あたたかな用意された部屋ではありませんでした。そうです、それは日常の課題や心配から逃げ出すあなたではなく、その真ん中に救い主であるイエスさまがおられることを見つめたいと願います。そして、その場所をあけて向き合うあなたでありますように。神が演出するクリスマスはドラマティックではなかったことに、自分を重ねて確かなクリスマスを味わいたいものです。

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聖書の言葉

「夜が来る前に」

主日礼拝 2011年12月18日

またイエスは道の途中で、 生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。 「先生。 彼が盲目に生まれついたのは、 だれが罪を犯したからですか。 この人ですか。 その両親ですか。 」
イエスは答えられた。 「この人が罪を犯したのでもなく、 両親でもありません。 神のわざがこの人に現れるためです。 わたしたちは、 わたしを遣わした方のわざを、 昼の間に行わなければなりません。 だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、 わたしは世の光です。 」
イエスは、 こう言ってから、 地面につばきをして、 そのつばきで泥を作られた。 そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
「行って、 シロアム(訳して言えば、 遣わされた者)の池で洗いなさい。 」そこで、 彼は行って、 洗った。 すると、 見えるようになって、 帰って行った。

(「ヨハネの福音書」9章1-7節)

牧師の言葉

■ 神のわざという道がある 
 上の聖書箇所、始まりは「盲人を見られたイエスさま」です。しかも「道の途中」とありますから、私たちにもいくらでもイエスさまと出会うチャンスがあるのだと勇気づけられます。盲人を見るというコントラスト、人間の無力と神の全能、人間の弱さと神の力、人間の罪と神のまなざしを表しているような気になります。弟子たちは、その人について「盲目に生まれついたのはその人の罪か、両親の罪か」と質問しました。私たちも、何か悪い事、不幸、悲惨な運命に出会うと、それと釣り合うような悪い過去、しわざがあったのではないかと探り始めます。そして、この人は生まれつきの盲人であったために、彼自身の罪のせいではなく「両親」のせいかもしれないと考えました。これに対するイエスさまの答えは「決してそうではなく、神のわざがこの人に現れるため」(3節)でした。人が過去を見て、つじつまを合わせ、納得させようとするのに対し、イエスさまはこれからのことに目を向けさせます。罪の振り返りではなく、神のわざに期待するように導きます。これが、神と生きる人の見る視野なのでした!

■ シロアムの池で洗え
 イエスさまは、ただでこの盲人を癒されませんでした。あなたには「昼の間に行なわなければならない」(4節)と神のみことばに従ってみよとチャレンジを仕向けました。今、あなたがすべきことを与えると言われるのです。イエスさまに出会う人は、その人のうちに神への信仰が芽生えるように展開していきます。そして、今朝の私たちにも同じ事を願っておられます。「生まれつきの盲人」と同じように、生まれつき神への信仰、みことばへの従順のかけらもない私たちです。霊的な盲人である私たちを目に留め「シロアム=遣わされた者(イエス)で洗え」と言われます。「夜が来る前に」自らの罪を洗っていただくために、キリストへと駆け寄る者でありたいと願います。

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聖書の言葉

「床を取り上げるクリスマス」

主日礼拝 2011年12月11日

そこに、 三十八年もの間、 病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が伏せっているのを見、 それがもう長い間のことなのを知って、 彼に言われた。 「よくなりたいか。 」
病人は答えた。 「主よ。 私には、 水がかき回されたとき、 池の中に私を入れてくれる人がいません。 行きかけると、 もうほかの人が先に降りて行くのです。 」
イエスは彼に言われた。 「起きて、 床を取り上げて歩きなさい。 」
すると、 その人はすぐに直って、 床を取り上げて歩き出した。

(「ヨハネの福音書」5章1-9節(抜粋))

牧師の言葉

■ 神の訓練のもとに 
 クリスマスは、それを待ち望む者にとっては良き訪れそのものでした。上の聖書箇所では、ある病人が出て来ます。彼は38年間、思い病をわずらっています。そして、この時も年に一度の祭りの際に起こるとされるいやしの奇跡を求めて、ベテスダの池のほとりにいました。祭りで人々が神殿へと足しげく通って行く中、伏し続ける彼の心境はいかなるものであったでしょうか。この時の彼は「床」にいた事が分かります。彼の床には希望はありませんでした。その証拠に、イエスさまが彼に向かって「よくなりたいのか」と問いかけた時、彼は「はい。すぐによくなりたいのです」とは答えませんでした。彼の居座っていた「床」がその答えを妨げていたのではないでしょうか。病人であればいつであっても直りたいと思っているはずだと考えるかもしれません。しかし、もしあなたが同じ期間病をわずらっていたらどうでしょうか。そのうち、直る希望も努力も失ってしまうのが普通ではないでしょうか。けれども、その「床」はいつか、だれかが取り上げてくれなければなりません。そうでなければ、救いがないからです。クリスマスはこの病の男に近づいています。

■ 見つめるべきお方を見よ
 「よくなりたいか」の問いかけに、この男は「ほかの人が先に」とか「だれも私を抱えてくれない」とつぶやきます。そんな彼に対して、イエスさまはシンプルで大胆に「床を取り上げ、歩きなさい」と言われました。彼の中にあったさまざまな言い訳やあきらめは、このみことばによって吹き消されていきます。彼は「床」から立ち上がり歩き出しました。注意深く見てみると「床」は取り上げられたのではなく、彼自らが「取り上げた」(9節)とあります。これは彼にその力があったからではなく、主イエスの声に従ったからこそ、与えられた祝福です。このクリスマス、床を取り上げる従順と新たに歩き出す祝福が、みことばを聴いているあなたにありますように

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聖書の言葉

「そこに働く神」

主日礼拝 2011年12月4日

母は手伝いの人たちに言った。 「あの方が言われることを、 何でもしてあげてください。 」
さて、 そこには、 ユダヤ人のきよめのしきたりによって、 それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
イエスは彼らに言われた。 「水がめに水を満たしなさい。 」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。 「さあ、 今くみなさい。 そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。 」彼らは持って行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。 それがどこから来たのか、 知らなかったので、 −−しかし、 水をくんだ手伝いの者たちは知っていた−−

(「ヨハネの福音書」2章1-11節(抜粋))

牧師の言葉

■ 神を待てる人に 
 クリスマスの主人公はイエスさまですが、その母マリヤの信仰は多くの事を教えてくれます。上の聖書箇所も「イエスの母がいた」(1節)とマリヤが起点となっています。「ぶどう酒がなくなりました」としもべが相談したのもイエスさまではなく、その母マリヤでした。そして、そのマリヤはやりとりの後、そのしもべたちに「あの方の言われることを何でもしてあげてください」と言いました。問題の解決方法も、時もイエスさまに委ねたのです。問題は差し迫っている状況であっても「わたしの時はまだ来ていません」(4節)とイエスさまが言われるのであれば、主の働かれる時をただ待つこと。このように「神を待てる」信仰こそ、アドベント(待ち望む季節)に必要なのではないでしょうか。

■ しきたりとの対決
 この時、イエスさまが目を留められたのは「水がめ」でした。約100?もある水がめ6個を「水で満たしなさい」と命じます。不可解で、相当な労力が必要なのですが、手伝いの者たちは間髪入れず従ったようです(7節)。この水がめは、食事時のきよめの「しきたり」のためのものでした。イエスさまがあえて水がめを用いられたのは、私たちを「しきたり」から解放されるお方であることを示すためです。「しきたり」が人を救い、喜びで満たすことはできません。ただ、自己満足や表面的に着飾らせるだけです。イエスさまは「しきたり」ではなく【わたしのみことばへの応答でいっぱいにせよ】と言われます。すると、水はぶどう酒へと、その本質が変えられました。それだけでなく「水をくんだ手伝いの者たち」(9節)の人生をも変えたでしょう。彼らがあきれるほど素直にイエスさまのことば通りに水をくんでいた、その地道で陰ながらの働きをイエスさまはしっかりと見つめておられたからこそ、「さあ、今くみなさい」と言い得たのではないでしょうか。この方のまなざしと力があなたをしきたり、平凡、脱力やむなしさからの救いを与えるのです。今年のクリスマス、イエスさまと新鮮な出会いを経験させてくださいと祈りつつ、迎えたいものです。

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聖書の言葉

「嘆きを踊りに変える神」

主日礼拝 2011年11月27日

私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。
主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。
まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。

(詩篇30篇より抜粋)

牧師の言葉

■ 聖書のアドベンチャー観 
 11月27日から「アドベント」という教会の暦に入りました。クリスマスに向けての準備期間で、その語源は「アドベンチャー(冒険)」です。行く先に何が立ち起こって来るのか分からないのが冒険の醍醐味ですが、私たち人生のアドベンチャーには、その先に必ずクリスマス=神の救いの到来があるというのがクリスチャンの幸いです。この詩篇にも「叫び求め〜いやし」(2節)、「夕暮れ〜朝明け」「涙〜喜び」(5節)、「嘆き〜踊り」、「荒布〜喜び」(11節)と、たくさんの言葉によって神さまの真実を歌っています。聖書の人生観は「夕から朝」(cf.創世記)であり、聖書のアドベンチャー観は「嘆きから踊り」なのでした。

■ いのちを得させるため
 この詩篇で注目したいのは5節の「御怒りはつかの間、いのちは恩寵にある」という表現です。これを新共同訳では「ひととき、お怒りになっても、命を得させることを御旨としてくださる」です。私たちが夕暮れに感じていても、涙に遮られていても、嘆きに打ちひしがれていても、忘れてはならないのはそれが「命を得させるため」に神さまが用意されたものだということ。このことをこの歌と一緒に覚え続けたいと願います。

■ 嘆きから踊りに
 神さまは、私たちの「嘆き」を「踊り」に変えるため、このみことばを与えておられます。ダンスの先生が生徒にステップを教える時のように、耳元で教えをささやきながら、手を取りレッスンしてくださるのです。勿論、その最中には御怒りのような叱咤、涙の特訓、おじ惑うほどの試練があるでしょうけど、すべては「私が穴に下って行かないように」(3節)踊れるためのレッスンです。クリスマスにお生まれになった主イエスは十字架でいのちを捨てられました。それは、嘆くあなたが命を得、喜びのステップを踏んでアドベンチャーを行けるためなのです。
どうぞ、あなたに永遠のいのちと天国への道を与えてくださった救い主の礼拝へ行きましょう。

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聖書の言葉

「最高の務めにつこう!」

主日礼拝 2011年11月20日

私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。
あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。
私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということ、あなたがたは知っていなさい。

(ヤコブの手紙 5章12〜20節)

牧師の言葉

■ 「誓い」より大事なのは 
 今回でこの手紙は最終回です。ヤコブはこの結びにおいて「何よりもまず誓わないように」(12節)と切り出します。ここで禁じられている「誓い」とは「自分の言葉の正しさを主張する」という意味合いです。自分の言葉を保証していく生き方は「はい」と「いいえ」だけに留まらず、多くの言い訳や正当化した指摘等をしながら生き延びようとするものです。それは大変情けないことで、他者を落胆させ、自己嫌悪や自己憐憫に陥らせて、一向に神に向き直ることをしません。「何よりもまず」という言葉の強さをしっかり受け止めたいと思います。そして、自分の言葉の強さや巧みさよりも大事にすべきことがあると続けます。それが「祈りなさい」というメッセージです。「祈り」は必然的に思いを自分にではなく神に向かわせ、その助けを求めるものです。ここに解放があります。神を信じられる人は、苦しみにも祈る強い人であり、喜びには賛美する朗らかな人です。
日々において、ひとりの祈りの時間も大切です。そして週の半ばにもたれる教会の祈祷会もあなたの信仰の成長と教会の成長のために必須です。ぜひ祈祷会に行きましょう。

■ 愛と救いの務めこそ最高
 祈りによって勝利した人、エリヤについては「私たちと同じような人」(17節)と紹介しています。これは「同じ事柄で苦しんでいる」というのが原語の意味です。彼も、私たちと同じように苦しんだ人でしたが、その彼は信仰をもって熱心に祈った。すると3年以上一滴の雨も降らなかった大地に雨が降り、実を結ばせたのです(?列王記18章)。彼は祈りによって、渇き不毛な地に潤いと実を与えたのでした。最後に、苦しみや病いのためだけでなく「迷い出たたましいを死から救う」ために祈り労しなさいと結びます。今日癒された肉体は明日死んでしまうとも限りません。けれども、たましいが救われるとは、それが永遠のいのちであるがゆえに、滅ぶことはないのです。この地上でもっとも尊く美しい人のわざは、その人の救いを願って罪をおおい、その実を待ち望むことなのです。

 今、目の前の忙しさで、大切なことへの目が塞がれていませんか。それはサタンの巧妙な手口です。今、人の好き嫌い(得手不得手)に左右されて煩っていませんか。ともに心の目を永遠のいのちに向けましょう。そうすると、この最高のつとめにつく事の喜びが溢れます。祝福ありますように。

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聖書の言葉

「ドアの向こう側は・・・」

主日礼拝 2011年11月13日

こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

(ヤコブの手紙 5章7〜11節)

牧師の言葉

■ 合言葉は「主が来られるまで」 
 ヤコブの手紙が書かれた時代、切に望まれていたのは「主が来られる」ことでした。新約聖書の時代、クリスチャンは同胞のユダヤ人からもローマ人からも激しい迫害を受けていました。毎週の礼拝に集うのもいのちがけで、まだ日曜も休みでなかった頃ですから、仕事や疲れや休息に対する誘惑も多かったことでしょう。そんな彼らには「主が来られる時まで耐え忍びなさい」(7節)という合言葉こそ慰めでした。彼らには「主が来られるまで」というはっきりとしたゴールがあったのです。「私たちは主のために生きている」というプライドと言ってもよいかもしれません。だから、迫害や誘惑の時代においても彼らはモチベーションをなくしませんでした。この世界は世の流れや人の力によって成立しているのではないことを表明し続けたのです。このドアの向こうに愛するイエスさまがおられる臨場感を抱いて今週も丁寧に歩みたいものです。

■ 神さまからたましいへ
 「耐え忍ぶ」ことの例えとして、農夫が必ずもたらされる雨と実りを待ち望みながら生きて行くことが挙げられています。神さまがいっさいをご支配しておられる確信を持ち、神さまの約束は必ず果たされることを信じて疑わない人こそ、今日の困難や忍耐に打ち勝てるということです。さらに、耐え忍ぶ人は人間関係においても世とは違う特徴を持っています。互いにつぶやき合うことを避け、不満を持つ者同士が集まることをしません。むしろ、ヨブや預言者といった聖書からの良き模範、モデルを探し出し、あこがれながら乗り越えて行きます。その「結末」はすでに決まっていて、それは「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる」(11節)ことが分かる旅路です。
 私たちが沈み込むことより引き上げられることを、つぶやくより祈ることを、失意より信頼を選んで神さまから美しい結末をいただきましょう。

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聖書の言葉

「たましいのSOS」

主日礼拝 2011年11月6日

聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、晩軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。

(ヤコブの手紙 5章1〜6節)

牧師の言葉

■ この日から永遠に 
 この聖書は「聞きなさい。金持ちたち」と書き出します。「私は金持ちではないわ〜」と耳がふさがりそうですが、決して金銭の蓄えや土地を多く所有する人、社長・・・に限定されているのではありません。むしろ、この言葉の意味は「地上のもので満たされている」です。あなたの周りを見るといかがでしょう。地上的な物品でいっぱいではないでしょうか。そして、その地上の物で心を豊かにし、幸せをそこに見いだしていないでしょうか。富、着物、金銀は永遠には役に立たずやがて腐り、さびがつくものです。そういうものを持つことばかりを考えていてはやがて「悲惨」に泣き叫ぶことになると警告しています。すべては「この日」ではなく「終わりの日」(3節)のために生きるべきだということでしょう。それは「万軍の主」(4節)にお会いする日です。地上での生涯の終わりであり、肉体の死であり、それは永遠の始まりでもあります。その日のために、私たちがこの日をいかに生きるのかに聖書はメッセージの焦点をあてているのです。永遠のために今日があり、今日という日が永遠の1ページでもあるとしたら、勝手やムダな生き方はしたくありませんね。

■ 神さまからたましいへ
 誰かを支援するには、その人自身を見なければなりません。その人にモノがあるかないかだけを見ても、その人のたましいには安らぎや養いを届けられません。これと同じように、あなたが持ち、見つめているものは神さまが与えておられるのです。あなたを取り巻くのは単なるモノではなく、あなたのたましいに配慮した神さまからの贈り物なのです!いいえ、生活に必要な品々だけでなく、あなたと関わりのある人も、働きも学びも、どんな境遇でさえも神さまがあなたのたましいを思ってこそ備えられたものばかりです。人、モノ、周囲からは決して聞こえて来ない、この天からのことばにたましいごと生かされてまいりましょう。

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聖書の言葉

「未来形よりも みこころを」

主日礼拝 2011年10月30日

兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。
聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。

こういうわけで、なずべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。

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牧師の言葉

■ あなたは何者でしょうか?
 神さまは、私たちの思考や会話に興味をもっておられます。「悪口を言ってはなりません」とはすごくささいなことだと感じませんか? 全能の神がそんなことにまで関心を持たなくてもよいのに・・・と。しかし、神は「耳を造られた方」なので、私たちの声を聞かれます。今朝のヤコブ書で「律法」とされているのは「神の基準」という意味です。私たちが互いの悪口を言い、あの人をさばき、この人を切り捨てるなら、それは神の基準にそむくことだと教えています。私たちが神との関係を正しく結んでいるなら、不和やさばき合いに発展することはないのですが、神を畏れないところには、泥沼の展開が待ち受けています。
 あなたを救うのは「ただひとりである」(12節)ことを受け止め、神さまの祝福を求めて、悪口やさばき(あの人が苦手、嫌い、一緒に居たくないも含む)の思いを捨てたいと願います。

■ 神を知らぬ高ぶりを捨てて
 神なき人生のむなしさは対外関係だけにあるのではありません。それは人のたましいをもむしばむことを教えるために、商売人のたとえが続きます。ここに登場する商人は、自分の計画を持って生活を進めます。誰でも、計画を持つことは必要でしょう。しかし、注意深く見ると、その計画の中に「神がいない」ということに気づきます。「きょうか、あす」と始まったのが、いつの間にか「1年いて」と計画は先走り「行く、商売する、もうける」も全て未来形で書かれています。未来形が意味するのは「あなたはそう思っても、実際はどうなるか分からない」ということです。地上の生涯は永遠ではないし、あなた自身の手中にたましいがあるのでもないということです。それよりも永遠の昔から存在し、生きておられ、あなたを造り、息吹をもって生かす「主の主権、主のみこころ」を忘れなることのないように。
 「霧」にすぎないいのちさえ気にかけ、祝福を与えてくださる神を認める時、あなたの人生は意味ある輝きを放ちます。今、神さまがあなたの求めておられる「みこころ」は何でしょうか。わかっていながら、知っていながら行わないなら、それはあなたの大きな罪です。悔い改めて方向転換しようではありませんか!当たりさわりのないいい訳や、嫌な人や事柄から逃げて避ける事や、神がいない生活が平気になることが通常になってしまい、神に背を向けた罪の生活にはまらないうちに!

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聖書の言葉

「どうすれば?そうすれば!」

主日礼拝 2011年10月23日

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心ある人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。

(ヤコブの手紙 4章6〜10節)

牧師の言葉

■ へりくだる者にこそ・・・ 
神さまは、私たちのいったい何を喜ばれるのでしょうか。神さまは、私たちがそれぞれの欲によって戦ったり、争ったり、悪い動機から動くのを望みません。それよりも、私たちが神の恵みによって動くことを求められます。神さまは「いけにえは喜ばない。むしろ神を知ることを喜ぶ」(ホセア6:6)と言われます。また「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」(マタイ9:13)とも言われます。私たちの必死のいけにえよりも、まず神さまのあわれみをいただくことを求めることから始めたいものです。「あわれみ」は受けるものであって、努力して獲得するものではありません。ふんぞり返っていただけるものでもありません。そのために「へりくだる者に」なり「神に従い」「神に近づきなさい」との命令にうなづく必要があるのです。「高ぶり」とは「上に立つ、上で輝く」という意味の言葉です。私たちは容易に人の上に立とうとするし、神さまにさえ同じような態度で接してはいないでしょうか。いつでも神の前にへりくだり、高慢がもたらす風通しの悪い人間関係から解放されたいと願います。

■ ただ一つの心をもって
神に従うと言った場合、ある程度できればいいとか、この時だけはそうしようとか、これが終わったら整ったらという「二心のある」姿勢ではなりません。もう神さましかおられない、この方にだけはどんな時にも従おう、これだけは譲れない!という心を持つことです。このお方を「私の主」として歩んで行くことです。
この聖書箇所には「そうすれば」ということばが実に3回も出て来ます!。滅びは逃げ去り、神が近づき、天の喜びを味わうのだと約束されています。この「そうすれば」こそ私たちが従うことの原動力です。神さまは移り変わりがなく、決して裏切ることのないお方ですので、信じきってしまってよいのです。信じるなら最高のお方を信じ、従うなら一心に従いたいと願います。

今、あなたの目の前にあり、優先している宝、仕事、恋人、忙しさ、そして、何より自分自身を2番目にしてみませんか。まず、信じきって良い、いのちの息吹をあなたに与え、生かし、祝福の道へ導いてくださっている神さまに従うことを優先にしませんか。礼拝に行かれない理由を神さまに言ってみましょう。自分が優先しているものが、どれだけ、神さまのいのちに値する以上のものなのか、確認する良い機会となることでしょう。共に、「そうすれば」祝福が与えられる約束を信じて、まず、礼拝生活を続けることから神さまを喜ばせていきたいものです。

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聖書の言葉

「あなたをあきらめない神」

主日礼拝 2011年10月16日

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。

(ヤコブの手紙 4章1〜5節)

牧師の言葉

■ 根深い欲望 
 私たちの日常は、ストレスや不和、いらだちやいざこざから全く自由であるとは言えません。あれが気に入らない、あの言葉が気になって穏やかでない、あの人に会いたくない等。その原因はいったいどこにあるのでしょうか。聖書は、その原因は「あなたがたのからだの中で戦う欲望」(1節)だと指摘します。私たちは「どこに」「あの人に」と、自分以外のものに原因を探すのですが、神さまは「あなた自身にある」と言われます。こういうみことばに出会った時、いかに向き合うのか問われます。真剣に考えるのか、それとも聞き流すのか。
聖書は「自分のものにならないと人殺しを・・・手に入れることができないと、争ったり、戦ったり」(2節)とさらにえぐってきます。自分から出た欲がいかに短絡的で卑劣な行為となっていくのかを教えています。自分の欲に対して静まることをしないなら、結末は争い、戦い、破綻、断絶です。悪い動機をもって願う人のことを「貞操のない人」(4節)と表現します。今では「貞操」という言葉は死語となったでしょうか。「貞操」を守るには純潔さが求められます。そんな断固として自分に死に、神を愛することなど私たちにできるのでしょうか・・・・。

■ しかし、神は・・・
 世の流れに揺れて傾く私たちを見て、神さまはどのようにお思いになっておられるでしょうか。驚くことに「神は・・・ねたむほどに慕っておられる」(5節)とあります。私たちが神への貞操なく世の友になびいていく時、自分の欲に引かれていく時、神は「もうお前はだめだ。もう知らん!」と、断罪するのでなく、ねたむほど慕ってくださっているのです。「ねたみ」は愛さないと出て来ない感情です。無関心の相手には「ねたみ」さえも生じません。
 私たちの神は「ねたむ神」(出エジプト20:5)でもあり、そのねたみの背後にある燃えるような愛の持ち主であることを知るべきです。この神の愛を無意味にしてはならないのです。自分原因の欲と正当化で礼拝を休み、あなたを愛して止まない神を悲しませ、その愛を無駄に生きていませんか。自分の欲や思想、考えと対決しつつ、神を喜ばせたい一心で生きて行こうではありませんか。

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聖書の言葉

「神の作戦、あなたが必要」

主日礼拝 2011年10月9日

 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。
 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

(ヤコブの手紙3章13〜18節)

牧師の言葉

◆下からの知恵は 
喜怒哀楽が激しい私たちには、ただ神さまからの愛と力によって舌が制御され、賛美と祝福をもっていのちある人生へと導かれて行きます。そして、この聖書のみ言葉はその口やことばが浅はかなもの、うわべだけのものにならぬようにとのススメです。ことばでは良いことを言っていても「心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば」(14節)、それは偽りです。それは心苦しいものです。けれども、私たちの内側に「上からの知恵」が注がれるならば、私たちの内には純真をはじめとし「えこひいきや見せかけのないもの」(17節)になると約束しています。興味深いことに、私たちは遠くの人間をねたんだり、えこひいきしたりはしません。むしろ近くの者=隣人をねたんだり、身近な者=隣人に見せかけの優しさをふりまいたりするのです。それは、私たちの知恵が下からのもの=地、肉、悪霊に属しているからなのです。そこには「秩序の乱れ」が起きます。しかし、聖書はその隣人を「あなた自身のように愛しなさい」と命じています。あなたは、隣人をどのように愛しているでしょうか。

◆上からの知恵は
知恵は、私たちの心を支配するものと言えます。もし、私たちが下からのものではなく、上からの知恵で支えられるならば「純真、平和、寛容、温順」(17節)にあふれ「あわれみと良い実に満ちる」と約束されています。それは「平和をつくる人」(18節)とも言われています。何もしない平和ではなく、あなたがつくる平和がある。何も言わない平和ではなく、あなたが挑んでこそ作れる平和がある。それは「義の実」と言われているように神の義=ただしさ、神のえこひいきのない愛、自分を計算に入れないあわれみをどんな局面であっても隣人に示していくことです。

あなたを愛して天から駆け寄り、十字架にまでかかったイエスさまに応える道にチャレンジしてみませんか? 自分中心な理由を正当化して、イエスさまの十字架の犠牲をむだにしていませんか。悲しませていませんか。礼拝生活こそが、イエスさまの愛に応える道なのです。

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聖書の言葉

「神が口に与える恵み」

主日礼拝 2011年10月2日

私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きな森を燃やします。
舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

(ヤコブの手紙 3章1〜12節(抜粋))

牧師の言葉

◆人生の方向を決める舌 
「言葉によって失敗した人」を思い出すなら誰が浮かぶでしょうか。任命と辞任を繰り返す政治家でしょうか。報道される芸能人でしょうか。この聖書箇所では「私たちはみな」とあります。言葉で失敗するのは、ニュースに取り上げられる人だけではない。実際にはあなたの言葉、口、舌が問われているのです。馬のくつわや船のかじ、あるいは火事を例に挙げながら、小さな舌の持つ大きな影響力をヤコブは説明していきます。人生を狂わせてしまうような「不義の世界」「死の毒」が自分のからだの中にある、からだの器官の一部なのだと警告します。私たちは自らの舌の重要性をさらに自覚しなければなりません。では、私たちの舌は、どうあるべきなのでしょうか。

◆神にはできるのです
馬がくつわによって正しい道へと導かれるように、私たちも自らの舌を制御することが先決です。けれども、現実は賛美とのろいが同じ口から出ています。同じ舌がある時は神を賛美し、ある時は人をのろうことを「あってはならない」と断言します。泉がずっと同じ種類の水をわき出すように、私たちの舌も一貫していなければなりません。でも、それが「だれにもできません」(8節)。では、私たちの口から出る賛美や祈りや祝福はうそ、偽善なのでしょうか?決してそうではありません。私たちが舌を制することのできた時、それは神さまの御手があなたの舌に伸ばされている証拠なのです。あなたが神を賛美し、人を祝福する時、それは、人にはできないことを神がしてくださっている時そのものです。だから、自信をもって賛美しましょう。祈りましょう。祝福しましょう。一日の間で、その時間が少しでも増えるように。それこそ神さまが今週あなたに願っておられることです。神をほめたたえ、人を祝福する泉のくちびるを持ちたいものです。
人を祝福するには、教会の礼拝で実行する事から始まるのです。欠かさず礼拝に行く事を、神さまご自身が備えられ、命じられ、臨まれている祝福の生き方だからです。

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聖書の言葉

「働け信仰!」

主日礼拝 2011年9月11日

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。

(ヤコブの手紙2章14〜26節(抜粋))

牧師の言葉

◆信仰+行ない?
キリスト教会の教える救いは「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」という3原則です。これは世界の宗教観と比べてみると実にユニークです。何しろ、救いに関して私たちには何も依存していないからです。ただ「からっぽの手」を差し出してこの救いをキリストから受け取ることを歴史の中でも説き続けて来ました。 すると、このヤコブの手紙は、このような教えとは正反対のように思われます。「行ないのない信仰は死んでいるのです」(26節)とはっきりと告げているからです。これはいったいどういうことなのでしょうか。私たちが救われるためには、やはり信仰だけでは不十分で行ないが必要とされるのでしょうか??

◆ヤコブが言いたい事
ヤコブはこの出だしで「愛する兄弟たち」と告げている点にまず注意しなければなりません。「兄弟」と呼ばれるのは、それぞれが神の家族の一員であるからです。つまり、ここは救われるための条件として書いているのではなく、救われた者がいっそう神の栄光を求め、人を愛する者へと向かっていくためのメッセージなのです。ですから、信仰のみで救われるけれど、救われた者はそれを受け取って「ラッキーだ」と喜んで終わりではないだろう、と教えているのです。むしろ、信仰のみで救われたからこそ、救いを忘れることが出来ない、救いに応えて生きたいと願ってやまない人を、呼び覚ましたいのがこの箇所なのです。

◆愛があふれたなら
愛ある行ないが、義務ではなく、感謝や応答として表明されるためには、自分がいかに神に愛されているのかを知る必要があります。コップに入り切らない水だけが外にあふれ出るように、あなたに注がれている神の愛と恵みをまず十分に味わわなければなりません。あなたのからっぽの手いっぱいに、注がれたキリストの愛があるならば、それをじっと見つめ、その愛に驚き、その愛があふれるまで味わい、その愛を分け合いたく願います。
あなたも神に愛されていることを知って信じているなら、その応答として、まず礼拝を欠かさず守ること。いや、守るというより、ささげずにはいられなくなるはずなのです。イエスさまの十字架の犠牲の重みを今一度想いましょう。それほどの犠牲を払ってでもあなたを愛して愛して愛おしいがゆえに、天国へ招く道を備えてくださったのです。さあ、あなたの信じる信仰よ行きて働くものとなれ!

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聖書の言葉

「オリーブの木(寺田祐一先生による)」

主日礼拝 2011年9月4日

あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。

(詩篇128篇(3節のみ抜粋))

牧師の言葉

 オリーブは、新約二十二回、旧約四十九回、一番最初に出て来るのは、八章十一節の、洪水が終わって地が乾いたことを知らせる木として登場します。神殿の建材、ケルビムや扉の高級な材料としても用いられています。高価なオリーブ油が採れるだけではなく、姿かたちもよく、葉は常に青々としているかなりな長寿の木で、現在のイスラエルでも一番古いのは樹齢800年と言われ、イエス様が祈られたゲツセマネには、樹齢2000年もあったと言われます。
  次々と若枝が出て成長するオリーブの木は、聖書では様々な祝福と恵み、喜びのしるしとしてたとえています。特に、病人がいる時、その人にオリーブ油を塗って祈ると癒されるというしるしでした(ヤコ5:14)。よきサマリア人の話の中で、強盗に襲われた人を助け、傷口に塗ったのも「オリーブ油」で、実際、薬としての効能もあったでしょうが、それ以上に、人を助ける喜び(ぶどう酒)と神様の恵み(オリーブ油)にあふれています。しかもこれは、対立する者同士に起こったことでした。助けられたのは強盗に襲われた人で、アメリカ人でも韓国人でもない。勿論日本人でもない。不思議なことですが、どうしてこの人は強盗に襲われた人を助けたのでしょうか。人は、人を助けることに喜びを感じるように作られているからです。
  オリーブの多くの品種は自家受粉は出来なません。一本だけでは実を結ばないのです。また、同じ種類、DNAが同一の花粉にも反応( 認識)せず、実をつけないのです。ですからオリーブは必ず二本以上隣接して植えなければなず、しかも、別な種類のオリーブでなければならないのです。
 このオリーブの木に、私たちクリスチャンはたとえられています。実に光栄なことですが、私たちはその信頼と役割にお応え出来ているのだろうか。困っている人を見ても通り過ぎたり、教会でも、つい同じ仲間たちと集まりたがり、残念なことに排除の力が働いたりします。これでは福音が広がることはなく、ましてや実を結ぶことさえ出来なくなってしまいます。
 福音は全世界のあらゆる人々に伝わり、排除の力を打ち破って実を結んで行きました。そんな力がオリーブの木には、いいえ私たちクリスチャンには、その働きのために備わっているのです。凄いことですね!

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聖書の言葉

「栄光とえこひいき」

主日礼拝 2011年8月28日

私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。
あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。
もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。
しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。
律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。

(ヤコブの手紙2章1〜13節(抜粋))

牧師の言葉

◆信仰を持っているのですから
この箇所の書き出しは「栄光の主イエス・キリストを信じる信仰をもっているのですから」で始まります。私たちの信仰は自分の中にあるなにものにも頼りません。目に見えるものでもありません。実に、信じ仰ぐのは「栄光の主イエス」です。自分にどれだけ自信があるのかが信仰の度合いであったら、ぐらついて仕方がないのですが、私たちはキリストを仰ぎ見る時、このお方がまず私たちを愛してくださったことに安堵して、すべてをお任せする信頼へと繋がっていくのです。私たちに信心深さがあるのではなく、キリストの真実と栄光によって私たちにも信仰が芽生え、根付いていくのですから、喜ばしいことです。「栄光」とは神の尊厳から来るまばゆさです。私たちは、栄光の主から必ず闇に打ち勝つ光をいただいています。
そして更に、神の栄光を仰ぐ私たちへたっての願いがありました。それが「えこひいきしてはなしません」なのです。神の栄光が求めるものはもっと高貴で、崇高なものなのではないかと私たちは予想します。けれども、ここで神の栄光にふさわしいのは「えこひいきしない」人なのでした。神の栄光は、私たちの内側をも照らして、祝福の人生を歩ませようとするのです。

■さばきを圧倒するあわれみ
 私たちは、自分が神の栄光をもたらす器であることを忘れると、好き放題に過ごしてしまいます。だから毎日毎朝1日の始まりにおいて、みことばに導かれる必要があるのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(8節)と言われたなら、人に対し決めつけた態度を取らず最善を願い祈ってからのぞみましょう。「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇る」(13節)と聞いたなら、憎しみや敵意、あきらめ以外の解決方法があることを信じ、それに向かいましょう。
 こうした私たちへの命令のみことばは、私たちに押し付けられているだけではなく、まず神さまが私たちにしてくださったことだと気づくでしょうか。神がまず愛し、深いあわれみをもって私たちを赦されました。十字架というむごい痛みと苦しみを伴う犠牲をもってです。これを忘れてはなりませんね。この方を仰げば、新たな道を歩めるのです。今日、あなたはどのようにみことばに従い、栄光のイエスさまを信じて歩みますか。

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聖書の言葉

「神に応えて生きるには」

主日礼拝 2011年8月21日

19愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
20 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

(ヤコブの手紙1章19〜22節)

牧師の言葉

◆みことばをお手本に
 昨年から「断捨離」という言葉やライフスタイルが推奨されるのを耳にするようになりました。「断」は入って来る不要物を断ること、「捨」はずっと使わないものを捨てること、「離」はモノへの執着から離れることです。
 このヤコブの手紙で命じられていることはこれに似ています。19節に「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」とあります。私たちには、内側に入って来る誘惑を断り、たまっている悪を捨て、怒りやすく自己正当化しやすい執着心から離れる必要がありそうです。
「人の怒りは神の義を実現しない」(20節)とあるのは、私自身が間違っていても怒る罪を持っているということからも明らかです。怒りは神さまの義をストップさせるものでした。欲は誘惑と結びつけられるとひとたまりもありませんから「すぐに忘れる聞き手」で満足していてはいけません。それは、本当はしなければならないことが分かっているのにそれをしないで自分自身をだましていることだと教えています。あまりにも早く語る事で、自己弁護や自己主張をしながら、結局自分の意のままに歩むことがないよう「心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れ」(21節)ましょう。

◆光あるうちに・・・
「みことばを実行する人になりなさい」(22節)と続きます。「実行する」とは、制作者とか作曲者を意味します。神さまは私たちが聞いたみことばに対して機械のようであるより、作曲者のように楽しげであることを期待しておられます。だれでも、みことばを聞くならすべきことがはっきりと照らされます。
 神さまが、「あなたに断ること、捨てること、離れること」を願っていることが分かったなら、喜んでそうしたいと思うでしょう。自分でストップをかけずに、急いで実行したいと願います。自分の弱さに対し「それはわかっているができない」と、甘やかさないで、神さまに力をいただきながら、喜ばれる行いを積極的に実現していくことこそ、成熟したキリスト者になることができるのです。

「光がある間に歩きなさい」(ヨハネの福音書12:35)

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聖書の言葉

「試練は喜び?」

主日礼拝 2011年7月3日

神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

(ヤコブの手紙 1章1〜4節)

牧師の言葉

今年後半は「ヤコブの手紙」を学びます。
 ヤコブは「主の兄弟」(ガラテヤ1:19)で、イエスさまの実の兄弟。しかし彼も「兄弟たちも・・・信じていなかった」(ヨハネ7:5)とあるように十字架と復活があるまでは、イエスを救い主とは信じていませんでした。その彼が「イエス・キリストのしもべ」としてクリスチャンを励ますようになりました。ヤコブをそこまで導き、 成長させたものは何でしょうか。
 それは「試練・・・をこの上もない喜びと思いなさい」(2節)という大胆な命令によるものでした。しかも「さまざまな試練」とありますから、病、経済、人間関係、進路、孤独等どんな試練も「喜びと思いなさい」なのです。
 注目すべきは「思いなさい」です。「思いなさい」ほど理不尽な要求は他にありません。例えば、「あの人は偉いと思いなさい」「トマトは青いと思いなさい」のように。しかし、主はあえて、試練を喜びと「思いなさい」とはっきり言われます。それほど根本的な変化を持たないと、大抵の試練は荒れたり、打ち倒されたりして終わってしまうから、この言葉が必要なのです。
神さまが試練を用いてあなたの信仰が強められることを思うなら喜びは失われません。「忍耐が生じる」原因は「試練」であり「試練」の目的は「成長」なのでした。神さまはまだまだあなたをあきらめていません。あなたに乗り越えられない「試練」を与える方ではありません。見込みがあるからこそ、あえて試しているのです。
 「試練」に会うとき、主の期待を受けている自分を喜び、主と一緒に乗り越える先を見て恐れず進みましょう。終わらないトンネルはないのですから。

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聖書の言葉

「父の愛が見えますか?(鈴木雅也先生)」

主日礼拝 2011年6月26日

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』

すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。

(ルカの福音書 15章20〜31節(抜粋))

牧師の言葉

1:不満足?
イエス様による放蕩息子のたとえ話には、父の家を飛び出して行く弟息子と父の家に留まる兄息子が登場します。弟息子の問題は不満足にありました。私たちはどうでしょうか。

2:赦せますか?
一方で、兄息子は自分勝手して帰って来た弟息子を喜んで受け入れた父が赦せません。兄息子の問題も実は不満足。彼は、父の家にいた日々を喜べていなかっので、帰って来た弟を迎えることができませんでした。

3:父の愛が見えますか?
弟息子を迎える父の姿、兄息子に対する父の言葉には、私たちに向けられた驚くばかりの神の愛が示されています。私たちもこの父の愛を改めて教えられたいと思います。

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聖書の言葉

「神を2番目にしないで」

主日礼拝 2011年6月19日

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

(マタイの福音書 6章13節)

牧師の言葉

聖書では「試み」という語を「試練」と「誘惑」の意味で使っています。「試みに会わせないで」とは「試練に会わせないでください」という意味ではなく「誘惑に負けて罪を犯しませんように」の意味です。
「試練」は自分の弱さを知り、神に委ねることを学び、信仰が成長するために必要です。そこを避けて通っていればとても楽な人生かもしれませんが、か弱い品性しか持ち得ない人となるでしょう。
けれども「誘惑」はそれを「避けて通りなさい」と主イエスは教えています。なぜなら「誘惑」が私たちの信仰を強め、神を信頼させるようにすることなど決してないからです。誘惑に負けると私たちは罪を犯し、神との関係を壊し台無しにします。神さまとあなたとの間に他の何者をも割り込ませないようにするために、私たちが罪を犯す前に誘惑から守られるよう祈り備えることがここで求められているのです。私たちの信仰が押しつぶされ、弱くされ、大した物事にも対処てきなくなってしまわないよう「誘惑」からお守りくださいと祈りましょう。すべての誘惑は「神を第1ではなく2番目にする」ところにあります。
しかし、私たちには、神のことばに従い、祈り祈られることによって誘惑への勝利が約束されているのです。何という力!何という励ましでしょうか!

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聖書の言葉

「共なる喜び(青木義紀先生)」

主日礼拝 2011年6月12日

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。

(ルカの福音書 15章10節)

牧師の言葉

ルカ15章は、三つの例え話から成ります。今日は最初の二つを味わいます。第一は一匹を捜し求める羊飼いの例え。第二は一枚の銀貨を捜す女性の例え。
 第一の例えは男性的で、私たちを救う神の力強さと優しさが表現されています。第二の例えは女性的で私たちを捜す入念さや注意深さが強調されています。
 両者に共通しているのは、大事なものの「喪失」、その「発見」、そして発見した時に起こる「喜びの共有」です。15章の三つの例えに共通するテーマは、失われていた者が発見される喜び、本来のあるべき状態に回復する喜びです。これは「喜び」の例え話なのです。
 しかし15:1-2を見ると、取税人や罪人がイエスの元に集まった時に、それを喜べない人々(パリサイ人・律法学者)がいたのです。この例えは、神から遠ざかっていた人が救いに与かるという喜びの場面で、この喜びを共有できない人々に向けられた痛烈な批判なのです!
 救いが異邦人に大々的に広がっていく基となったペンテコステのこの日に、私たちは他者の救いの喜びを、共に喜ぶ者でありたいと願うのです。

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聖書の言葉

「恵みを知る知恵を」

主日礼拝 2011年5月29日

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

(「マタイの福音書」6章11節)

牧師の言葉

◆ パンも神のために
主の祈りは、その呼びかけから天の父に向かい、御名、御国、みこころと神さまの権威、支配、願いを最優先します。神さまの栄光のために祈れるのという特権を私たちはいただいています。それから自分たちのために祈るようにイエスさまは教えます。その初めは「日ごとの糧」への求めです。知恵とか富、幸福のためではなく「日ごとの糧(原文はパン)」を求めるのです。ルターは、日ごとの糧を与えてくださいと祈らない人にも神さまはパンを与えてくださっているのに、どうして私たちはこれを祈らないといけないのですか?との問いに対して「私たちにこの恵みを気づかせるため」と答えています。神の恵みを知ることこそ本当の知恵です。パンはパンでもしっかりと自分と神さまとの関係を意識したたましいのこもった、真剣勝負の祈りでした。

◆ 知恵をいただく
さらに「日ごとの糧」とは「必要なパン」とか「明日のためのパン」とも訳せます。祈るのは「明日のため」で十分だと教えられています。もちろん、長期の祈りの課題もあるでしょうが、まず祈るべきは「明日のため」でした。それは、自分にとってちょうどよいものを神さまが与えてくださることで、高慢にもならず、神を呪う罪からも守られるからです。私たちはすぐ人生に保険をかけておかなければと焦るのですが、祈ることで神の保証を実感出来るならそれこそ最高の恵みです。神の恵みを知るために、日ごとに祈ってみませんか。パンも友も仕事も学びも時も楽しみも訓練も笑いも涙も神があなたにちょうどだよと与えておられる恵みなのです。

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聖書の言葉

「神さまの願いどおりに」

主日礼拝 2011年5月22日

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

(「マタイの福音書」6章10節後半)

牧師の言葉

◆ 神さまの思い通りに
「天にいます私たちの父よ」では、祈りが私たちを養い、守ってくださる父なる神に向けられるものであり、祈る私たちも天を目指す生き方をそこで表明しているのです。続いて「御名が崇められますように」では、神が神として崇められ、私たちを通して聖とされるように願い、「御国が来ますように」で神さまの力と守りとで私たちを支配してくださいと求めるものでした。
それに続く「みこころが行なわれますように」とは端的に「神さまの思いどおりになりますように」ということです。この祈りほど普段の私たちの祈りとは真逆のものはないように思います。私たちは自分の願いを祈るのは得意です。自分が優先されるところには愛とか幸せを感じやすい存在なのです。だから、他者の意見を聞くこと、言う通りにすることには抵抗を感じます。しかし、主イエスは私たちに「神さまの願いどおりになさってください」と祈るように教えました。実に大きな挑戦です。しかし、これを祈る時、私たちは自分の考える幸せから解放され、自分の欲求に振り回される罪から守られているのです。
◆ 賢い方に委ねる
主の祈りの要点は、私たちが神さまを歓迎することです。だから、祈った通りに神さまご自身を礼拝し、神さまのお名前を賛美し、神さまの国が実現するように願い、神さまの思いどおりになることを求めます。重要なことは「あなたの思い通りにしてください」と祈る時、その対象はこの世界、あの人、嫌な出来事ではなく、あなた自身であるということです。神さまのみこころが他でもないあなたの上になされるように祈っているのです。神さまの御心が実現するために、まずはあなた自身を差し出し、ささげる必要がありました。考えてみれば、すべてあなたの思いどおりになったらどうでしょうか。必ずあなたもあなたの周囲もそして世界も今より幸せになるでしょうか。そんなにいつ、どこを断ち切ってみても、愛と善、義と聖にあふれているでしょうか。そんなことはありません。やはり、私たちの思いどおりよりも、神さまの思いどおりになるように祈った方がよいのです。まず、何事を始めるにも「みこころがなされますように」とあなた自身を神さまに差し出しながら祈っていこうではありませんか。神さまのみこころに間違いはひとつもありません。

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聖書の言葉

「神を歓迎する生き方」

主日礼拝 2011年5月15日

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

(マタイの福音書 6章9〜10節)

牧師の言葉

◆ 神さまのお名前を崇める
主の祈りはイエスさまがこのように祈りなさいと教えてくださったお祈りですので、祈りの最善の型であることをたえず覚えておきたいものです。「父よ」との呼びかけに続くのは「御名があがめられますように」です。それは神さまをそのお名前の通りに神として礼拝することであり、神さまをどこまでも聖なる方として傷つけず、泥を塗らず、聖さを保つことです。それが「父なる神」に対する最初の祈りでした。このことが私たちの最初の願いとなっているかと問われると胸の痛む思いがします。現実の私たちはまず神さまのお名前を聖とするよりも、自分についてスムーズに進むことに関心があるからです。だからこそ、神さまを置き去りにしないで「神さま、あなたは素晴らしい方。今日もあなたを礼拝します」と祈って始めましょう。自分のことよりも神中心に生きる時、そこにまことの人生が展開されていくからです。

◆ 神さまの国を求める
続けて「御国が来ますように」と祈ります。それは、実際に領土を広げたり国を作ったりするのではなく【神さまのご支配が及びますように】という意味です。では神の守りと力がどこに来ることを願っているのでしょう。実は、これを祈るあなた自身に神さまの支配が実現することを求めているのです。このことを祈る時、私たちは神さまが介入できるように自分の心を明け渡します。さらに、自分の生活や人生の権限が自分にはなく、神さまにあることをうなずいて祈ります。自分の思い願いが神さまの願いや聖書のみことばと違う時にこそ「神さまあなたの国を今ここに建ててください」と祈ってみましょう。
この難しい社会、困難な時代だからこそ神さまのご支配をあてにしていけばよいのです。自分の知恵によってではなく神さまの権威によってあなたの生活が支えられ、導かれることの幸いを噛み締めながら。

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聖書の言葉

「祈ろう、父なる神に。」

主日礼拝 2011年5月8日

だから、こう祈りなさい。
天にいます私たちの父よ。

(「マタイの福音書」6章9節(前半))

牧師の言葉

◆ 祈りを教えてください
 人が、まことの神を知る以前と最も変わるのは「祈らなかった者が祈るようになる」ことです。弟子たちも「私たちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)と頼みました。それで主イエスが教えられたのがこの「主の祈り」です。実際に私たちが神さまに何を祈るべきなのか、そのことを教えてもらいたいと思います。初めにくるのは「天にいます私たちの父よ」という呼びかけでした。祈りは長さよりも巧みさよりも、まず【どなたに祈るのか】がはっきりしていることが大切です。相談には友を、アドバイスには教師を、病には医師を求めるように、祈る時はまず神の御前に出て行くことです。そして、このお方の前に立つとき、神が創造主であり、全能であり、偉大であり、愛の方であることを絶えず思い起こすのです。そして、よりによってそのお方を「父」と呼びなさいとイエスさまは教えられました。願い事、心配事、つぶやきをぶつける前に、こういうお方が私たちの神であり、静まって全幅の信頼を寄せ始めるのを、神は私たちに期待しておられるのです。
◆ 初めから信頼して
 「天にいます〜」から始まる祈り、原語では「父よ」が最初に来ています。「父なる神」が共にいることを発見してから祈り始めます。父には家族の全ての必要を満たし、生活を支え、知恵をもって育てる責任があります。たとえ地上の父親には欠点があるとしても「天にいます父」には失敗も欠けもない「完全な」(マタイ5:48)お方です。だから、自分の願いと神の願いとが違っている時には素直に、従順に従うのが【祈りの子】としての姿です。自分の状況や感情にがんじがらめになっている私たちには、父からの励ましと養育とが必要です。まして、父は「天にいます」お方ですから、私たちは地上の生涯だけにこだわった願望よりも、天を目指して歩き続ける旅人であることを覚え続けたいのです。ひとたび祈るならば天からの視点をもって生きられる幸いが主の祈りにはあるのです。だから、こう祈ってみましょう。「天にいます私たちの父よ」。ここから新しい歩みが始まって行きます。

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聖書の言葉

「イースター礼拝『くつがえす神』」

主日礼拝 2011年4月24日

御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

(マタイの福音書28章5、8、9節)

牧師の言葉

今日はイースターです。救い主イエス キリストが死に打ち勝ち、生き返り、永遠に私たちを愛し共にいてくださる事実を感謝し喜ぶ、特別な復活祭礼拝です。

◆ 暗がりからの出発
 十字架で死なれたイエスさまが墓に葬られるのをマリヤたちはしっかりと見届けていました。安息日が終わって週の初めの日(今の日曜)に、マリヤたちは墓を見に来ました。墓への到着が明け方だったので、彼女らが出発したのはまだ日も昇らない暗がりの中であったことが分かります。そういう始まりなのでした。
 私たちも新しい日や週を始める時、また教会に行く時でさえ、もしかすると暗がりから始めるような気持ちの時もあるかもしれません。いっさいの期待と希望に満ちて始められる日や仕事というのは少ないように思います。むしろ、不安を抱え、準備不足を憂い、結果を恐れることの方が多いのではないでしょうか。
 しかし、金曜にイエスさまが葬られ、大きな石で封鎖されたその墓が、今や石はわきへころがされ、天からの御使いがそこで迎えています。それはマリヤたちの想像を超え、考えもしなかったことでした。神さまの与える希望は、暗やみから出発する私たちの期待と不安のすべてを超えてしまうのです。十字架につけられたイエスさまを捜しても「ここにはおられません」(6節)と天から声がするのです。私たちも、この声を胸いっぱいにこだまさせて歩み出したいと願います。

◆ 喜びなさい
 マリヤたちに出会ったイエスさまは「おはよう」と言われました。元々の言葉の意味は「喜びなさい」です。暗いうちに歩き始め、墓を見るために来たマリヤたちの前に立ちはだかるようにしてイエスさまは出会われます。そこでは「君よ、喜べ」と優しく、力強く勇気づけます。それは「あなたはこれまで、ダメかも、もうこれまで・・・と墓に向かうような歩みをしていたかもしれないけれど、これからは違う。どんな絶望もあなたを終わらせることはない。わたしがそれを打ち破った」。この声だけが、喜べない私たちの根拠をくつがえし、新しくさせるのです。

3月の日本中を揺るがせた大きな地震から1ヶ月半が過ぎ、未だ数多くの被害を負った生活をしている方々を思うとき、なぜ、どうして、と問い続けることよりも、誰に、どんな方に生涯を託して頼って希望を持って行ったら良いのかの答えをしっかり握って伝えて広げていく必要があります。
絶望の縁から救うことができるのは、自分でも人の力でもない。結局はあなたを造り、あなたを何よりも愛し、戻って来るのを待ち続けておられる天の神さまであることを認め、信じて教会へ行き続けましょう。聖書を読み続けましょう。祈り続けましょう。必ず、死を打ち破った神があなたの絶望を打ち破る日が訪れ、深い深い平安へと導いてくださいます。

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聖書の言葉

「終わりまで神と生きる」

主日礼拝 2011年4月17日

イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。

(ルカの福音書23章46〜47節)

牧師の言葉

◆最期に何と言うか?
 この聖書の箇所は、十字架上での七つの言葉の最後です。
私たちはよく「人は生きてきたようにしか死ねない」と言うのを聴きます。あなたが人生の最期に口にする言葉とは、いったい何でしょうか。想像がつかないかもしれませんが、ただ、その時まで生きてきた通りの言葉が出ることは確かでしょう。
 医師の日野原重明先生いわく、大切な生き方とは「最期に自分の生涯を顧みて、自らが生まれてこうなったことは意味があると考えられるように、今日を生きることである」と記しています。
 あなたの人生に本当の意味を与えてくださるのは何でしょうか?愛する家族?それともお金?仕事?安定した生活?いつかはやがて滅んでしまうものがあなたの人生に本当の意味を与えることなど出来るわけが実はないのです。それに気づいて生きているでしょうか?
「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マタイ24:35)
神さま、あなたを忘れて今日を生きることがないように、私たちをあわれんでください。

◆ゆだねなさい
イエスさまは最期に「父よ・・・ゆだねます」と言われ息を引き取りました。これは決してその時に思いついた言葉ではないでしょう。むしろ、それまでの地上の生涯をずっと同じように歩んで来られたことを証明するものです。イエスさまの生涯は「ゆだねる」生涯。そして、イエスさまがゆだねたものは「わが霊」です。この「霊」は「息」とも訳せる言葉です。神さまが人をお造りになった時「いのちの息を吹き込まれた」(創世記)のを思い出します。イエスさまは最後のひと呼吸まで神さまに信頼して離れることがありませんでした。十字架につけられ殺される時にも「ゆだねます」と言われました。私たちが最期に「ゆだねます」と言う人生を歩むためには、今、握っているプライド、疑いや汚さ、憎しみ、或は大切で手放せないと思っているもの(仕事や生活そのもの)を「ゆだねる」ことです。それは、私たちが十字架の上で敵のために祈り、赦し、すべてを神にゆだねられたお方と共に生きることから始まります。

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聖書の言葉

「パッション(情熱)を抱いて」

主日礼拝 2011年4月10日

イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。

(ヨハネの福音書19章30節)

牧師の言葉

◆ 十字架の上でなされたこと
十字架の上でのことば、第6番目は「完了した」のひと言です。これは終わったと言うより、目的を成し遂げた、ゴールまで達したという意味です。十字架の苦しみ=受難を英語では「passion=パッション」と言います。普段は「情熱」や「熱情」で慣れ親しんでいるこの言葉が十字架の苦しみを意味するのは興味深いことです。
どうして「情熱」と「受難」が同じ言葉なのでしょうか。少し考えてみると分かる気がします。私たちは苦難を乗り越えようとする時、不思議と情熱が湧いてこないでしょうか。平穏でいる時よりも確かな熱が苦境や痛みには宿っていないでしょうか。この時のイエスさまもただ辛い、痛いなどの苦しみを受けておられるだけでなく、「パッション」を抱いて過ごしておられたのです。手足を釘で打たれ、全身で息をして、渇ききった体で何もできないように見えても、情熱をもってこの苦難を通過されるところなのでした。
そして大切なのが、決して受難を途中でやめようとはされなかったということです。その証拠に、イエスさまは「完了した」と言われたのです。受難と完了・・・イエスさまの生涯を支えていたのは、神への情熱以外にありません。
あなたはこのパッションを持っているでしょうか?

◆ この日も、この生涯も
「完了した」はただイエスさまのしたいことをやり終えたのではありません。その生涯はひたすら聖書が成就するためのものでした。イエスさまの人生は父なる神の御心に従うものでした。言い換えれば、神さまがその生涯を使い切ってくださったのです。私たちも、決して自分で終止符を打つのではなく、神さまから【わたしが、あなたに計画したこと、望んだことは十分にやり尽くしたよ】と言われるまで、地上の生涯を誠実に歩みたいと願います。神が「あなたの生涯は完了した」と言われるその日まで、パッションを抱いて、受難にも立ち向かいたいものです。

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聖書の言葉

「分かってくださる神さま」

主日礼拝 2011年4月3日

この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。

(ヨハネの福音書19章28節)

牧師の言葉

◆ わざわいはどなたに?
十字架の上でイエスさまが言われたことばの第5番目は「わたしは渇く」です。
聖書は、私たちが神さまのために、救いのために何をしなければならないかではなく【神さまがあなたに何をされたのか】を証しする書です。
ここでは救い主イエスさまが「渇いて」います。夜通し裁判にかけられ、鞭で打たれ、手足を釘で打ち抜かれたイエスさまのからだは痛みと苦痛とで全身が燃えるような熱を帯びていました。光と潤いが消え去った中、たった一人で「渇いて」おられました。イエスさまがこのことを「言われた」に注目しましょう。私たちは決して黙っていること、痛みを押し殺すことが美徳なのではなく、素直に体の弱さや疲労、精神的な苦痛や辛さを吐き出してよいのではないでしょうか。それによって「わたしは渇く」と言われたイエスさまが、その時のあなたにも共感しておられることを分からせてもらえるのです。

◆ 聖書が成就するために
しかし、イエスさまが「渇いた」のはただの不平不満からではありませんでした。すぐ前に「聖書が成就するために」とあります。ここの「聖書」とは神の御心、ご計画のすべてを指します。イエスさまは、神に従うためいっさいの災いを受けられた後に「渇く」と言われたのです。ちょっとやそっとの出来事や個人的なわがままではない。ただ、神の御心を果たし切るために、自分は身をもってそのことを経験し尽くしたということです。あらゆる慰めが取り去られ、最後の着物まではぎ取られたイエスさまが「渇いた」のはただ、【あなたを罪から救うため】でした。
救い主とは、ただ共感するだけでなく、身代わりとなって愛してくださるお方です。私たちも神さまからのご計画であれば、あらゆる十字架を甘んじて背負いたいものです。あなたの救いを「渇く」ほどに切望されたイエスさまの愛をいただいて、目を離さず生きて行こうではありませんか。

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聖書の言葉

「神の守りと愛に生きる」

主日礼拝 2011年3月20日

イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその弟子に、「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

(ヨハネの福音書 19章26〜27節)

牧師の言葉

◆ ご覧になる神
イエスさまが地上に人として生まれ、あらゆる病を癒し、罪人といっしょに食事をし、弟子たちと歩かれ、犯罪人とともに死なれるのは、私たちがどんな時にも失望しないでいられるように励ますためでもあります。私たちは永遠のいのちである救いとともに、今日からを生きて行く守りと力ともイエスさまからいただくことができるのです。十字架につけられたイエスさまは最後の場面、そしてその母マリヤにとってはすべてを否定したくなる気持ちであったに違いありません。マリヤは自分の息子がむち打たれ、ののしられ、十字架で殺される場面に直面しています。死ぬのが分かっているけれど、何もできません。それでも、イエスさまは「母・・・を見て」(26節)とあります。母マリヤの悲しみをご覧になっているイエスさまは死の苦しみ、罪の重荷を味わっているにもかかわらず。私たちは自分がつぶれそうで消え入りそうな時でもイエスさまのまなざしからもれることは決してありません。だから、失望せずに立っていられるのです。

◆ 必ず守られる神
ご覧になられたイエスさまは、母マリャには「あなたの息子がいます」とヨハネを指して言い、ヨハネには「あなたの母がいます」と言われました。十字架上で人間に向かって言われたことばは唯一ここだけです。それはとても大事なことでした。これからマリヤがどんな現実を歩まなければならないのかご存知で、その必要の備えをしてくださっているのです。ヨハネにとって自分にイエスの母を任される、その大きさに全力で応えようと導かれたのではないでしょうか。きっと彼の生涯を決めるひとこととなったはずです。

今日、私たちは同じみことばを聴いています。この世のどんな悲しみにも主の守りと配慮があり、自分には生涯をかけて愛に生きよとの使命があることを真摯に受けとめてまいりましょう。

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聖書の言葉

「自分のために祈りなさい。」

主日礼拝 2011年3月6日

十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

(ルカの福音書 23章39〜43節)

牧師の言葉

◆ 十字架で見つめるもの
イエスさまの右と左にいた犯罪人は同じ境遇、同じ刑罰にありながら、その永遠の結末は全く違うものでした。ひとりは救われ、ひとりは滅んだ。それは、彼らが十字架の上で見つめていたものが決定的な違いをもたらしたからです。ひとりは「キリストなら自分と我々を救え」と命令します。彼をこう言わせたのは憎しみと恨みではないでしょうか。十字架上で死ぬ間際であっても「この俺を助け出せ」と神要求します。自分の間違いや罪を決して見つめない強情さが表れています。もうひとりの男は「自分のしたことの報い」だと悟り、「悪いことは何もしなかった」と、イエスさまが罪汚れのないお方であるのに、罪深い自分たちと同じ惨めな姿でいることを捉えていました。彼は、自分がイエスさまの十字架の隣りに立った時、初めて自分自身の罪深さを知ったのです。
あなたは十字架の隣りに立っているでしょうか。そうしないといつまでも自分をあわれむばかりで、他者の罪に眉をひそめることしかできません。自らの罪深さに震えることがないのです。自分の罪に泣いてみてください。

◆祈りと約束だけがあなたを支える
彼は「御国(で)・・・私を思い出してください」と、あわれで汚れた自分のために祈りました。痛みを取り去れ!敵を滅ぼせ!というような利己的、自己中心的な祈りではありません。ただひとつ、自らのたましいの救いを願ったのです。
ああ、私たちも自分自身のためにもっと祈れる者になりたいですね。主イエスはこの祈りを聞き届けられ「きょう、わたしとともにパラダイスにいる」と約束を与えます。これこそ、この死刑囚である男が地上で唯一得た確かな希望のことばでした。この約束のみことばだけを握り、彼は自分の罪、過去、やるせなさ、人生の悩み、周囲の雑音、死の不安を乗り越え、パラダイスの門をくぐったのです。

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聖書の言葉

「あなたのために祈るから」

主日礼拝 2011年2月27日

ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

(「ルカの福音書」23章32-34節)

牧師の言葉

◆どちらかを選びなさい
聖書にはイエスさまは十字架にかかられてから七つの言葉が記録されています。(ハイドンらもこれらをモチーフに作曲をしています。)地上での最期が間近に迫る中イエスさまは何を語られたのでしょうか。その初めは「父よ。彼らをお赦しください」です。この時イエスさまは他に二人の犯罪人とともに死の刑罰を受けていました。マックス・ルケードという牧師であり作家でもある人が、十字架は「どうして六個とか十個ではなかったのか」と書いています。イエスさまを中心にその右と左に一人ずつ並んでいるのです。そして、この次を読み進めていくとその一人は救われ、もう一人はイエスを信じることなく滅びました。それは「どちらかしかない」ことを私たちに教えるためではないでしょうか。神さまはここで「永遠の結末の選択」を私たちに任せておられるのです。十字架につけられたイエスさまを見上げる時、私たちはその死を「私のためであった」とするのか、それとも「罰せられ打たれている」とあざけるのかどちらかを選択しなければなりません。そして、その選択こそ、私たちが十字架に示された神の愛に応答するもっとも厳粛な権利なのです。ここは狭い自分の見識や堅苦しい世間の常識にとらわれず、イエスさまのお言葉を丁寧に聞いて厳かな判断をくだしたいものです。

◆ 究極のとりなし
死の間際にイエスさまはとりなして祈りました。自分を十字架につけた人日のため、また、あなたのために。とりなしとは神と人とが正しい関係に入るために仲介されたという意味です。イエスさまは、世に流され、罪に翻弄されている私たちのためにとりなされました。このままでは神の御前に立つことなどできない私たちのために、その罪を背負って十字架につけられました。罪の罰を受けられたのは、あなたではなくイエスさまなのです。犯罪人と同じになって十字架につけられています。罪から来る報酬の死はイエスさまが死なれたのです。そうであれば、私たちは救いを受け入れ、罪に勝利する道を進もうではありませんか。あなたのために極みまで祈られたイエスさまのとりなしの叫びが聞こえてくるなら、精一杯それに応えていきたいのです。あなたのために祈ったイエスさまの叫びがこだましているその心を、そのまま主におささげして歩み出しましょう。

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聖書の言葉

「あなたをくどかれる神」

主日礼拝 2011年2月20日

「それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう。彼女が若かった日のように、彼女がエジプトの国から上って来たときのように、彼女はその所で答えよう。」

(「ホセア書2章14-15節」)

牧師の言葉

◆ あなたをくどかれる神さま
ホセアの時代、北イスラエル王国は領土を広め生活も豊かでした。ぶどう酒も金銀も多く持ち、礼拝だって欠かしません(2:8-11)。けれど「わたしを忘れて」いる(2:13)と神さまは指摘します。平和、繁栄、危険を感じない時こそ、知らないうちに「みことばのききん」(アモス8:11)が近づいているのです。だから、神さまは「くどいて」まであなたを「荒野」へ導かれます。私たちは自分から「荒野」に出て行くことはしません。むしろそうならないように、自分を守りつつ、巧妙に荒野行きを避けて生きています。だから、真に神のみことばを求めようとはしません。そんな私たちを神さまは失敗や罪や厳しい導きをもって、「荒野」へと連れて行かれます。神のみことばを聞かせ、それに頼らせるためにそうなさるのです。だから、私たちは神さまにくどかれて教会に来、くどかれて聖書を読んでいるのです。それはあなたに「優しく語る」(14節*直訳:心に語る)ためです。みことばの風があなたの心に優しく吹き渡りますように。たとえそこが「荒野」であっても、みことばは心底からあなたを支えます。

◆ アコルから望みへ
荒野はぶどう畑となり、アコルの谷は望みの門となる約束が続きます。「門」とは入る者にとってその後の暮らしが決まる重要な場所です。もし、絶望の門から入ればその後は絶望が、悲しみの門からは悲しみが、憩いの門からは憩いがありましょう。上の聖書箇所では「望みの門」とあります。神さまは私たちに「望み」を与えたいと願っておられるのです。しかも「アコルの谷」を「望みの門」にしようとされる。この「アコルの谷」は『ヨシュア記7章』に出てきます。アカンという青年が神さまにささげるべきものを隠し持っていたためにで石で打ち殺された場所が「アコルの谷」でした。「アコル」の意味は「わざわいをもたらす」です。神のみことばに聞き従わず、自分の目に良いと思うものをこっそりと隠し持って暮らすならそこが「アコルの谷」であることに私たちは心刺されるべきです。また、そこからあわれみを受けられることに心熱くされたいと思います。「荒野」に出て行かないでぬくぬくと自分を守っているのは、本当の意味で「心」が養われない不幸な歩みをしているのです。わざわいをもたらすようにくすぶり続ける谷底から、思い切って神さまの誘いに乗り望みの門から旅立つ週としませんか。

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聖書の言葉

「門は開かれている」

主日礼拝 2011年2月13日

また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」

(ヨハネの黙示録3章7−13節(抜粋))

牧師の言葉

◆教会だけに開かれている門
フィラデルフィアの意味は「兄弟愛」です。兄を慕う王が建てた町であることからそう名づけられたそうですが、教会こそそれぞれの兄弟姉妹への愛が実現してそれに支えられているところです。元々フィラデルフィアも異教の地でした。なぜ、そこに主の教会が生まれたのでしょうか?それはそこに「門」を開いた方がおられたからです。地上に教会の門を開く方神々の教えのはびこる地に真理を貫かれる方、私たちの貧しくかたくなで冷えきった心の門を開いて神の愛を注がれる方がおられたからです。「ダビデのかぎ」(7節)とは天の御国のかぎです。その門が開かれたから、そこに教会が生まれ主に立ち返る人が起こされてきました。私たちも決して例外ではありません。目の前には、閉じることのない天の門が開かれているのです。だから、一歩一歩踏み出すのがおっくうな時にも、神の御国の門は開かれていることを忘れないでいたいのです。

◆ミクロの力だからこそ
8節には「あなたには少しばかりの力があって」とあります。これは「あなたの力はミクロであって」という意味です。それは、この教会の人々の力は小さかったからこそ「わたしのことばを守り、わたしの名を否まな」いという主に心底頼る方法でしか生き抜けなかったという意味です。しかし、そういう者にこそ「神の愛は見せつけられる」のでした!主の名をどこでも誇る者は「試練の時には守られ」、「冠をだれにも奪われ」ることがありません。勝利の際には「聖所の柱」となる約束があります。この町は地震で大きな被害を被った経験がありました。どんな揺れが来てもどこにも逃げる必要はない堅固で永遠の主の宮に建てられているのです。小さな私たちであっても確かに天に置かれているのです。「わたしは、すぐに来る」(11節)という真実な方の励ましを胸に、主のことばだけに聞いて、地上の旅を進み行く私たちでありたいですね。

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聖書の言葉

「神が私の心を動かすなら」

主日礼拝 2011年2月6日

あるとき、私は夜中に起きた。ほかに数人の者もいっしょにいた。しかし、私の神が、私の心を動かしてエルサレムのためにさせようとされることを、私はだれにも告げなかった。また、私が乗った獣のほかには、一頭の獣も連れて行かなかった。
私は彼らにことばを返して言った。「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。だから、そのしもべである私たちは、再建に取りかかっているのだ。しかし、あなたがたにはエルサレムの中に何の分け前も、権利も、記念もないのだ。」

(ネヘミヤ2章12節、20節)

牧師の言葉

◆ 困難を見ている
 ネヘミヤ記はエルサレムの城壁再建の物語です。イスラエルという国はダビデ、ソロモン王の時代に栄華をきわめましたが、その後は南北に分裂し、B.C722年に北王国が、B.C586年に南王国が陥落し敵国の手に渡りました。多くの人々はアッシリヤ、バビロンへ捕囚となって連れて行かれるのですが、このネヘミヤ記では時代がさらに進んでペルシャ帝国の支配下に変わっています。大国が次々と争い立ち起こる中で、細々と生きてきたイスラエルの民。しかし、決して神さまに忘れられたわけではありませんでした。いや、神さまは忘れることのないお方でした。ペルシャの王は捕囚ではなく帰還の政策を取ったのです。
 翻弄されているような生活の中に、神さまの見えざる手によって導かれているのが私たちの人生だと言えないでしょうか。ネヘミヤは神の都エルサレムが荒らされたままなのを聞いて悲しみ、再建へ立ち上がります。現状は決して楽観できるものでなくむしろ「当面している困難」(17節)を見ていました。しかし、困難がその働きをやめる理由にはなりませんでした。

◆ 神が成功させてくださるので
 ネヘミヤが城壁の再建から逃げなかったのは「神が私の心を動かした」のが始まりだからです。神を裏切ることは人生に迷いと暗やみと疲労をもたらします。反対に、たとえ困難があっても神に従い続けることは、その人を支え、不思議にも力を与えるものです。さらに、 まだ始まってもいないその事業を「神が成功させてくださる」と言い放つネヘミヤはいかがでしょうか。私たちも「さあ」という呼びかけに奮い立つ者でありたいと願います。城壁はそれぞれの門を確立させる働きがありました。城壁はありふれた毎日の中で少しずつ、確かに築かれていく必要があります。あなたの毎日は天の門の城壁を築いてるでしょうか。

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聖書の言葉

「神から見たあなたは」

主日礼拝 2011年1月30日

わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

(イザヤ書 43章4節)

牧師の言葉

 私たちは誰かの目を気にして生きています。その目を気にして服装も身なりも言葉遣いも立ち振る舞いも整えます。家族であれ友人であれ世間であれ誰かの目から自由な人はいません。こう思われるのではないか、こう見られるのではないか、だからこうしなければならないと、少なからず思うものです。その目によって、自分の評価を決めてしまいがちです。自分の事を高くしたり低くしたりしてしまいます。人の目には実のところ、私の心は見えていないにもかかわらずです。人は外見あるいはうわべだけで他の人を評価してしまうのです。それなのに、私たちはそれに振り回されてしまうのです。
 聖書に「わたしの目」とあります。これは神さまの目のことです。神さまは全能ですからあなたの全てを見ています。外見や言葉だけでなく、むしろ心の中にあることまでを見られます。そのうえで「高価で尊い」あなた、「愛してやまない」あなただとはっきり言ってくださるのです。
 このような、うわべだけではない、真実な告白だけが、あなたを癒し、安心させ、力づけることができます。あなたの価値は、自分でも他者の目でもなく、神の目によって尊いと定められているのです。人のことばや評価で自分の価値を決めてしまわないで、神さまに尊いと愛されている安心感の中で生き生きとしたいものです。

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聖書の言葉

「わたしをあてにしてほしい」

主日礼拝 2011年1月23日

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

(ルカの福音書 11章9節)

牧師の言葉

◆ 瞑想と祈り
ある神学者が「私は祈らないが瞑想はする」(P.ティリッヒ)と言ったそうです。瞑想は静まって自分の思いを整理したり、落ち着けたりすることでしょう。英語ではmeditate「思う、癒す」と「繰り返す」が一緒になった語です。つまり瞑想とは繰り返し自分の中で考える、繰り返し自分で自分を癒す事だと言えます。それに対して、今朝のイエスさまは「求めなさい」と言われました。それこそが祈りだと。これは瞑想とは真逆ではないでしょうか。なぜなら、誰も自分から自分に「求める」ことはありません。相手があってこそ「求める」のです。自分の中には決してないからこそ「捜す」のです。自分の力を他にぶつけるからこそ「たたく」のです。私たちに求められているのは瞑想ではなく「祈り」なのです!
父なる神さまは、私たちが自分の中だけで思い巡らすのではなく、求めてほしいと願っておられます。他人の視線で答えを決めないでわたしに聞いてほしいと願っておられます。わたしをあてにしなさい、と。

◆ひたすらに
祈れば「だれであっても」受け、見つけ、開かれるとの約束は絶大です。ひとたび私たちが求めるならば、主は答えてくださるのです。このみことばの前後には祈りの姿勢が記されています。真夜中に依頼をする友人は「あくまで頼み続けるなら」(8節)と、遠慮なく求めることだけがその条件です。同じように、神の前では遠慮することの方が非常識なのでした!また、父親は、その子にとって良いものだけを与えようと気にかけています。だから大きな期待を持って神に向かいましょう。この結びには「聖霊」をくださるとあります(13節)。聖霊によって間違った祈りは正され、それまで乏しかった愛、喜び、平安、寛容(ガラテヤ5:22-23)という実を自分の内に結ばせてくれます。これにまさる幸いはほかにありません。

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聖書の言葉

「あなたの神になりたい」

主日礼拝 2011年1月16日

ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けてかけられている。その頂は天に届き、見よ、神の御使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
ヤコブは眠りからさめて「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。
彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

(「創世記」28章10-19節(抜粋))

牧師の言葉

◆あなたは神と出会っているか
新約聖書ではイエスさまも「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(マタイ22:32)と言っておられますが、上の箇所では、主はヤコブに対して「アブラハムの神、イサクの神、主である」(28:13)と現れています。これは「ヤコブよ、お前の父祖たち、アブラハムとイサクはわたしを神として歩んだが、お前はまだ神であるわたしと出会ってはいないね」という語りかけでしょう。ヤコブだってはじめから神とともにの信仰を持っていたわけではありません。さあ、聖書からの語りかけを「私の神の声」として聞きましょう。
◆こんな私に現れる神
この時、ヤコブは兄エサウの長男の権利、祝福をだまして奪ったために家にいられなくなり、親類の土地へと旅に出さた旅路でした(27:43)。自分の罪がひと足ごとに重くのしかかり、目的地のハランははるか遠く800キロ先。ある夜 冷たく堅い石を枕にして眠ります。そこで神さまはヤコブに現れてくださったのです。ヤコブが最高の状態にある時ではありません。ヤコブが底辺にいて力も熱もない時、神さまは「かたわらに立って」(13 節)優しい声をかけられました。 そこで、神さまはヤコブに土地と子孫の祝福を与えます。更にそれが実現するまで決して捨てないとも約束してくださいました。眠りからさめたヤコブはすぐさま「こここそ神の家、天の門だ」と叫んで礼拝しました。沈痛と孤独に満ちたその場所はただの場所ではなかった。まことの神に出会う場所となったのです。  
◆神に救われる幸い
どんなに追い込まれても主の約束のみことばに信頼さえするなら「主がここにおられる!」と賛美できるのです。ああ、この信仰を私もいただきたい。そして、そのためならば心の重荷も、乏しき孤独も、人との亀裂に沈む際にも、私は見捨てられた!とうつむかず、ここにも私の神がおられると心込めて祈りたいのです。天からはしごをかけ、御子をも与えてくださった神さまは、あなたを救うためにも出会ってくださるお方なのです。あなたの神になりたい、この御心をそのまま握らせていただきましょう。

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聖書の言葉

「神さまが黙らないのだから」

主日礼拝 2011年1月9日

シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、わたしは黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。
その時、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。

エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。

通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を掲げよ。

見よ。あなたの救いが来る。

(「イザヤ書」62章1-12節)

牧師の言葉

■神さまはあなたを忘れない
上にあるイザヤの時代にはアッシリア帝国が北イスラエルに侵攻して略奪し、バビロン帝国が南ユダにも近づいてくる時代です。神の民は不安に陥っていました。自分の仕事、家族、財産、人生がこの先どのようになっていくのか分からないのです。そういう状況下で周囲の国、王と連携して生きるのか、唯一の神に信頼しみことば通りに生きるのかの選択を迫られます。私たちが人生の難局に出会った時、何を、あるいは誰に頼るでしょうか。上の62章は「シオンのために、わたしは黙っていない」(1節)で始まります。これは厳しい時代、強敵に囲まれている状況での神の語りかけです。「黙っていない」とは、あなたに話すのをやめたり、関心を失ったり、手放したりすることは絶対にないということです。たとえ今はやみのように思えても「朝日のように」また「たいまつのように」神の救いがさんさんと輝くようにしてくださいます。そうなるまで「黙らない」と決めた神さまが今日もおられるのです。様々な局面に落ち込んでいても、朝に夕にこのみことばを聞くならば、私たちは勇気を失わずに神とともに生きることができるでしょう。

◆ あなたも神さまを忘れないで
神さまは黙らずに神の国とその義を完成させてくださることを聞いたなら、それをただ待ちほうけているだけではなりません。「主に覚えられている者」(6節)としてうなだれずに「黙っていてはならない」のです。神さまに訴えかける祈りを神さまが待っておられるのでした。「御国が来ますように」と切実に祈ることが求められています。この状況下であっても「神の義を現してください」と疑わずに迫って来る祈りを神さまは待っておられるのです。ですから、失望しないで祈り続けましょう。さらには10節で「通れ、通れ、城門を」との呼びかけがあるのに応じて神の守りと祝福があるところへ自らの足で踏み出しましょう。主の約束のみことばに基づくから、私たちは祈れるし踏み出せるのです。そうするといつ難局に出くわしても「救いが来る」(11節)のを信じることができます。事実、神の民を征服したアッシリアもバビロンも滅びましたが、このみことばは今日も生きています。私の人生が神の御手の中にあることに、本当の慰めを見いだす者でありたいと願います。

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聖書の言葉

「あなたに用意された道」

主日礼拝 2011年1月2日

私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

(申命記 6章6節)

牧師の言葉

◆ はじめにするのは
 新年礼拝のみことばは申命記からです。「申命」とは「重ねて命令する」の意味です。神さまは私たちを丸腰で、何の語りかけもせずに1年を始めさせようとは思っておられません。聖書のことばは永遠に生きて役立つものですから、今朝も神さまが私たちに永遠のことばを重ねて語ってくださることに感謝しましょう。
 初めは「聞きなさい」(4節)です。
これこそ神さまの私たちへの願いなのです!年の初め、週の初め、1日の初めに私たちがすべきことはみことばを聞くことです。そのために集っている共同体が教会です。一人ですればよいことを共同体とは呼びませんから、私たちは神の家族としてこのことを大切にしていきましょう。そして、私たちが主の前に座り、みことばを聞くのを神さまがどれほど願い、喜んでおられるのか、その熱い想いを感じる者でありたいと願います。

◆ 主権は神さまにあるのだから
 聞いたみことばは「すべてのおきてと命令を守るため」(2節)、「心に刻み・・・唱え・・・結びつけ・・・書きしる」すことが求められています。みことばを聞いたままにしないで、口ずさみ反復して自分に刻み込まれるまで期待されています。
ですから、【納得すれば従います】とか【ピンと来ないから嫌だ】とか【余裕があれば従えます】という姿勢はふさわしくありません。その姿勢の主権は神さまではなく「私」にあることになります。
 すべての主権は「神」にあり「主はただひとり」というのが、私たちが持つように招かれている信仰です。どんなときにもみことばが出て来るような心、いかなる状況でも主のみことばの主権を認めることのできる心をもって主を愛したいと切に願うものです。そして、主のみことばが良い地に導くものであることを疑わずに進む1年にしましょう。

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聖書の言葉

「主を呼べば」

主日礼拝 2010年12月26日

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。
主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、
主よ、だれが御前に立ちえましょう。
しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます。

私は主を待ち望みます。
私のたましいは待ち望みます。
私は主のみことばを待ちます。

(詩篇130篇(抜粋))

牧師の言葉

◆どこから祈るのか
上の詩篇は「都上りの歌」と表題がついていて、都のエルサレムへ向かう巡礼者の祈りです。いつもは都から遠く離れた地に住む者が、いざ神の都を目指して旅する途上で祈る歌です。この旅は行楽だとはしゃぐよりも、切なる神の恵みだけを求めて何とかたどり着きたいというような願いが込められていると言う方が的を得ています。私たちの一年を振り返っていかがでしょうか。全部満たされていますか。それとも、何かを求めたり、何かに渇いていたりしていますか。まだまだ神さまに慕い求める思いがあるのではないでしょうか。ここの祈りも「深い淵から・・・呼び求めます」で始まっています。どこにいるのかがよく分かります。深い淵、すなわち神さまの光が届いていないように思える所に沈んでいるのです。神さまから最も遠い所に潜んでいるのです。それでも、なすべきことは「あなたを呼ぶ」ことでした。私たちもどんな所からであっても「主よ」と呼び続けましょう。【こんな状態では無理だ】、【祈りに何の意味があるのだ】とのつぶやきはやめ、主を呼びましょう。「私の願いの声」を聞いてもらうのです。深い淵であってもこういう信仰をしっかり持っていたい。

◆待つ者に応えられる主
神さまを慕うこの詩人には決めていることがあります。一つは「待つこと」です。しかも「待ち望む」のですから決していい加減にボーッとではなく「望みながら待つ」という素晴らしい姿勢がありました。自分や周囲を見ればどうしようもないことでも、神さまを見上げる者には光や導きの下で生きることが出来ます。もう一つは「主は裏切らない」と信じ切ることです。「すべての不義から」救い出される主は、今の私たちがどこにいても必ず救い出してくださるのです。私たちの側には不義しかないのですが、神さまはご自身のまえにひたすらへりくだる者には必ずあわれみをかけてくださいます。そして、神さまご自身によるめぐみによってすべての祈りに答えてくださいます。この神さまを求める者になりたい、心底そう願うものです。

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聖書の言葉

「あなたの心を開く神さま」

主日礼拝 2010年12月12日

テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

(使徒の働き 16章14節)

牧師の言葉

《主が心を開いて》
今回はパウロを中心とした宣教師らがアジヤ地方からヨーロッパへ渡った際の出来事です。行き先を決めるにあたり神さまの導きがありました。「今日、この時、このことをしなければならない」と神さまは私たちに働きかけてくださるお方です。そう思うと、今日の1日を始めるのも大切にしたいですし、神さまの御心にかなうことができるようにと祈りたくなりますし、神さまが後押ししてくださると思うと嬉しくもなります。パウロたちがそこで出会ったのはルデヤという女性でした。彼女は川辺にある「祈り場」でパウロの語るみことばを聞き回心しました。これはとても静かな経験だったでしょう。なぜなら、主が「彼女の心を開」(14節)くだけのものだったからです。ここからルデヤは新しい人生を歩むようになりました。良き訪れは、神さまによって静かにそして確かに与えられます。今日、あなたの心が開かれ、神さまをお迎えするときであるように祈ります。

《どうか私の家に来てください!》
主を心にお迎えしたルデヤはすぐにパウロたちを自分の家に迎えました(15節)。しかも、強いて頼んで家を開放します。この後パウロらが牢獄から解放されてからも彼らを迎えたのには、周囲の反応も考えると勇気のいることだったでしょう(40節)。それでも、ルデヤの信仰は自分個人にとどまらず、「私の家」=誕生から死までを経験する人生の全行程に主を迎え、周囲に表明するものでした。

心が開かれた人は自分の家、自分の仕事、自分の人生そのものを主のために開いて祝福を受けます。この一人の回心によってその後のヨーロッパ大陸での宣教がピリピ教会となって実を結びました。ルデヤがその場限りの経験にして立ち去っていたなら、この後何も起こらなかったでしょう。
クリスマスには部屋や家にクリスマスツリーを飾るように、信仰の喜びを心からあかあかと灯し、主をお迎えしましょう。

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聖書の言葉

「神さまが呼ばれるから」

主日礼拝 2010年12月5日

少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。

そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。

(「第一サムエル記」3章1-10節(抜粋))

牧師の言葉

◆みことばはまれにしかなく
上の箇所にはエリというベテラン祭司とその宮で仕える少年サムエルが登場します。エリは次の2節では「目がかすんで」とあるようにだいぶ老齢となり地上でのキャリアも終盤に差し掛かっていました。少年サムエルはサムエル記1章でその母「ハンナ」が祈りに祈って与えられた第一子です。とても大切な子であり、誓願の子であるので、その生涯を神さまの御用のためにささげられた男子です。祭司エリには自分の息子たちの罪とそれをないがしろにした罪が重くのしかかっています(2:22)。神さまは「わたしよりも自分の息子たちを重んじて」とエリに迫っています(2:29)。そうした中「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」時代としてこの3章は始まります。エリが祭司の務め=神に堅く立ち人々を導くのを怠っていたため、主のことばはこの時代にかすんでしまいました。どうかみなみ教会のため、また牧師のために祈ってください。何よりもみことばが、この教会で鮮明に聞かれ、私たちの内側に響き渡り、吹き渡りますように!
◆はい、ここにおります
少年サムエルは声を聞いた時、サムエルはエリの下へ走り寄りました。しかし、呼んだのはエリではありません。これが3度続き、エリは主がサムエルを呼んでおられることを悟って教えます。エリがサムエルに対し、自分ではなく主に聞くように教えたのは彼の最後の仕事であったようにも思えます。そして、次に御声を聞いたサムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と主に言いました。その内容とは、恩師エリの罪をさばく苦渋のものでした。それをしかと聞いて一夜を過ごすサムエルは「成長」(19節)したのです。私たちも主の語りかけを聞くことを日々の務め、生涯の務めとして主から聞き続けたいと願います。最初の主のことばは「まれ」とあるのはめったにないというよりも、何よりも貴重な、プレシャスなという意味です。神さまに呼ばれるほど、また、神さまの御声を聖書から聞けるほど貴重なものはありません。クリスマス、多くの歌や飾りが周囲にはあふれています。されど、私の名を呼んでおられる神さまをしかとお迎えしたいものです。

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聖書の言葉

「闇の中に聴くいのちのことば」

主日礼拝 2010年11月21日

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

(「ヨハネの福音書」11章1-25節(抜粋))

牧師の言葉

人は愛を自分中心に考え易い。そのことで主ご自身を見失い、信仰の意味がわからなくことさえある。そうした時、どうしたら信仰を回復し、再び救い主の言葉に生きることができるだろうか。マルタとマリヤにとって、弟ラザロの病は緊急の事態であった。それ故、主のもとに使いを送ったなら主が直ちに来てくれるものと期待した。ちょうど、主はベタニヤから3キロという近くにおられた。ところが主は、姉たちが全く予想もしなかった行動をとられた。ベタニヤから離れてユダヤに向かわれたのである。それは、姉たちにとって全く理解できないことであり、主の愛を疑わせるものであった。ラザロは、姉たちの心配と恐れの中で息を引き取る。この間に主は弟子たちにラザロの死を告げておられる。その言葉は、弟子たちにとっても受け止め難いことであったに違いない。「ラザロは死んだのです。‥さあ、彼のところに行きましょう」(14-15節)。主が再びベタニヤに来られた時、ラザロは墓に入れられ4日も経っていた。マルタとマリヤにとって、ラザロが死んだ今、主の存在は意味がなかったかも知れない。少なくても、かつての信頼を失い、その対応は批判が中心になってしまう。しかしイエスは、この絶望の中にある姉たちの傍に立たれ「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と言われた。【エゴーエイミ】という強い表現が用いられるのは、姉たちが直面する現実の中に、いのちの主の言葉に心が向けられるためである。絶望するのでなく、いのちの言葉に聴くことが求められている。私たちは、恐れや不安、失望の中に、自らの存在の意味を失うことがある。あるいは信仰が激しく動揺する。しかし、主はその中に立たれ、いのちの言葉を語られる。それを聴き、主のいのちに生きることに主の愛があることを確かに覚えていきたい。

注:上記は、仙台のぞみ教会 秋山善久牧師によるメッセージです

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聖書の言葉

「むりやりの先にも」

主日礼拝 2010年11月14日

彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架をむりやりに負わせた。

イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

(「マタイの福音書」27章27-44節(抜粋))

牧師の言葉

◆ののしる人
上の聖書箇所は、イエスさまが鞭打たれた身体で十字架を背負って歩き、ついに十字架につけられる場面です。兵士の全部隊はイエスを囲み紫の衣を着せ、いばらの冠をかぶらせ、つばをかけ、葦で頭をはたいて笑い者にします。しかも、十字架につけたその下でギャンブルをして着物をわけます。この期に及んでイエスさまの十字架を何とも思っていない無関心さにゾッとします。また、聖書を教える祭司長たち、道行く人々、実にいっしょに十字架につけられた強盗たちも「同じようにののしり」ました。この場面、イエスを何とも思わない人たちであふれているのです。イエスがなぜ苦しみを受けられているのか、なぜののしり返さないのか、なぜ十字架を背負われるのか・・・彼らはそこにいても見えていません。ここでは自分の罪に気づけず、その生き方がいかにむなしいのかが分からずにいる者の姿があぶり出されているのです。
◆担う人
そんな中32節に「シモンというクレネ人」が登場し、イエスの十字架を背負わせられる場面があります。彼は、皆が自分を見失った異様な雰囲気の中 イエスと共に歩んだ唯一の人物です。初めはシモンも道の傍らから聞こえるののしりの群衆に混じっていました。それが偶然にもローマ兵によって首をつかまれ、イエスの十字架を背負うように強いられたのです。聖書は彼の息子をして「主にあって選ばれた人ルポス」(ローマ16:13)と記します。このシモンは背負わされた十字架がきっかけでイエスを救い主として信じ、その妻や息子たちにも信仰が受け継がれました。ルカ23:26を見ると「イエスのうしろから」運んだとあります。私たちがもっとも苦しい時にも、なぜですか!という苦悩の時にも、その前をイエスさまが歩んでくださっています。こういう忘れ得ない経験をシモンは「むりやりに」負わせられた十字架から経験しました。私たちの日々も負わせられたような苦い経験、担いきれない重荷、抱えきれない心配事で満ちているかもしれません。それでも、その前にはイエスさまが歩いておられるその姿を信仰の目ではっきりと見、ついていきたいと願うものです。

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聖書の言葉

「神なしで生きるのですか」

主日礼拝 2010年11月7日

それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ」
だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはまずまず激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。

(「マタイの福音書」27章11-26節(抜粋))

牧師の言葉

◆気づきながらピラトは
イエスさまはローマからユダヤへ送られた総督ピラトの前に立たされます。このとき、イエスさまはどんな不利な証言にも反論なさいませんでした。ピラトは事の成り行きを見て、人々が「ねたみ」からイエスを訴えていることを見抜いていました。またその妻からも「あの正しい人とはかかわらないでください」との進言を受けていました。「正しい人とかかわらないで」とは何たる皮肉でしょうか。私たちは「悪い人とつきあってはいけません」と教えられて育ちます。むしろ正しい人と積極的にかかわりを持つように教えられます。けれども、ここではその逆で「あの正しい人とかかわりをもたないでください」です。イエスさまの正しさを人からさばくことはできないというピラトの妻(名前はプロクラで、神を敬う改宗者とも言われています)の言葉は鋭いものがあります。しかし、ピラトは結局「私は知らない」と言って群衆の暴動を恐れて彼らにイエスさまを好きなようにさせるために引き渡します。暴動が起きれば今度は自分の立場が危うくなります。監督不届きとなり失脚させられます。そうなる前に、イエスさまを「私は責任を負わない」と言って引き渡したのです。ピラトはイエスさまに罪を見いだす事が出来ませんでしたが、イエスさまに従う事もしませんでした。

◆キリストを捨てた人たち
人々は「どちらを釈放してほしいのか」という問いかけに対し「バラバを釈放せよ」と言い、「イエスは十字架につけろ」と叫びます。「バラバ」は暴徒であり、人殺しです。殺されて当然の者とイエスさまを取り替えているのです。こんなことがあってよいのでしょうか。あろうことか、救い主と人殺しが入れ替わりました。人々は、もっとも美しく尊いものを、もっとも忌まわしく汚れたものに取り替えてしまったのです。しかし、これは他人事ではありません。私たちにもこの恐ろしい罪がなびこっています。愛から始めたものがいつしか憎しみへと変わっているのに気づく事がないでしょうか。陰ながら支え続ければよいものを、いつしか自分の手柄としてはいないでしょうか。励ましがいつしか陰口になること、喜びがいつしかため息になることがあるのではないでしょうか。私たちの罪の現実を、この場面にしっかりと描かれていることを認め、それを無言で引き受けておられるイエスさまの御姿をじっと見つめ続けたいと思います。キリストから目を離さずにいたいと願います。

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聖書の言葉

「「後悔と悔い改め」」

主日礼拝 2010年10月24日

さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。

(「マタイの福音書」27章1-10節(抜粋))

牧師の言葉

◆死ぬ程に後悔したユダ
イエスさまの裁判は一晩中続きました。偽証とののしりと罵声に塗りたくられた夜をイエスさまは過ごされたのです。しかも弟子の皆から見捨てられ、たったひとりぼっちで。私たちにも眠れない夜が訪れることがあります。しかし、私たちはひとりぼっちではありません。このような経験をしてくださったイエスさまが、必ずそばにいてくださるからです。苦しい時に、イエスさまを覚えられるのはこの上ない励みとなります。
さて、先に裏切ったユダはイエスさまが死刑にされることを知り「罪のない人」を売ってしまったと「後悔」(3節)しました。そして、その報酬である銀貨30枚を神殿に投げ捨てた後、外に出て首をつって死にます。死ぬ程に、ユダは後悔したのです。その後悔は本物と言えるものです。しかし、このことを聖書は【あなたもぜひ、そうしなさい!】と褒めてはいません。かえって「ユダは自分のところへ行くために脱落していきました」(使徒1:25)とあるように、このユダの後悔は神の国にふさわしい行ないではなかったと教えています。なぜでしょうか。

◆後悔と悔い改め
それは、ユダの後悔はイエス・キリストに向けられたものではなかったからです。後悔の先は自分の身に、売ってしまったという過去に向いていました。イエスさまの宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)でした。後悔が自分の命を絶つ程絶望へと追い込むのとは対照的に、イエスさまの言われる悔い改めは「天の御国が近づいて来る」赦しと希望に満ちたものになっています。これほどまでに、後悔と悔い改めとは違うのです。似ているようですが「後悔」と「悔い改め」は原語でも違う言葉が使われています。さらに、第二コリント7:10では「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」とあります。この「悔いのない」はここでのユダと同じ「後悔」という言葉です。悔い改めは、後悔を寄せ付けません。イエスさまにあって、新しくされたいのちに燃やされるのが悔い改めというものです。罪を犯したことで心を刺されても後悔は自らを傷つけ滅びへと向かわせ、悔い改めは赦しと救いを与え、悔いを残しません。それは「悔い改め」がキリストの十字架がすべての罪をおおうことを、恐れ入りながら、されどありがたく受け取ることだからです。イエスさまは私たちに、後悔ではなく、悔い改めを願っておられるのです。「天の御国が近づいたから」。ここに福音が輝いています。

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