メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「わたしのところへ」

主日礼拝 2008年8月10日

彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそばに来て、御前にひざまずいて言った。「主よ。私の息子をあわれんでください。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことが出来ませんでした』。イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい」そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はそのときから直った。そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に「ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

(「マタイの福音書」17章14-20節)

牧師の言葉

◆曲がった時代に
高い山で栄光の姿、輝きをまとわれた主イエスは、そのところに留まらず、山の下に下りて行かれます。主イエスは人々の住むところへ来てくださるお方です。天上から見下ろす、人の苦しみなど分からず、経験したこともないお方では決してありません。しかも、そこは「不信仰な、曲がった世」(17節)です。皆がイエスのあわれみを求めることなく、好き勝手に過ごす、そういう世の中です。この時にも、父親以外に主イエスに求めた人はいませんでした。そのことを嘆いて「いつまであなたがたにがまんし・・・いっしょにいなければならないのか」と言われたのです。忍耐深い主、試みにも苦しみにも打ち勝たれた主イエスが、耐えかねているような場面です。そうです、主イエスは不信仰のままでいること、曲がったまたでいることには厳しく責められ、一刻も早く「わたしのところに」来るように招かれるお方なのです。そこにしか、癒しはないからです。

◆この山に告げよ
弟子たちは「そっと」主イエスに失敗の原因を尋ねます。ずばり「あなたがたの信仰が薄いからだ」と答えながら「からし種ほどの信仰」を持つように続けられました。信仰は祈りを生み出します。祈りとは、主イエスのあわれみを願うことに他なりません。このお方を差し置いて「私がやります」、「この問題が放っておけないのです」と焦ってみても、そこにはあわれみを請う余地はないでしょう。「この山に」とは、目の前のどんな事柄であっても、主イエスとともに考え、事を成すように、私たちを促す励ましです。「わたしのところに連れて来なさい」との御声に、いつも聞き従う者とさせていただきましょう。からし種ほどの、生きた、いのちある信仰を携えて。

聖書の言葉

「神があなたを導く」

主日礼拝 2008年8月3日

「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生、私たちがここにいることはすばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。

(「マタイの福音書」17章1-5節)

牧師の言葉

◆天を仰げば
私たちにとっての難敵は試練や苦難だけではありません。むしろ、「何の意味も感じられない単調な日々」が信仰を希薄なものとすることもあるのではないでしょうか。神の存在を力強く受け止めることが出来ない、代わり映えしない生活の中で尊い神が共にいてくださることを意識しないでいることが多々あるように思うのです。上の聖書箇所では「イエスは・・高い山に導いて行かれた」と始まります。私たちが登るのでも、始めるのでもなく、主イエスが私たちを幸いへと連れて行ってくださるのです。週の始まりに、主は私たち一人一人の手を引いてくださっているのです。

◆なすべきことは
高い山で「イエスの変貌」という出来事が起ります。後にペテロ自身が第二の手紙1章で書き記しているものです。ペテロにとってほかのどんな奇跡、パンを増やしたり、嵐を静めたりするよりも、印象深く心に刻まれたものでした。日頃から寝食を共にするイエスが、神の栄光に包まれて輝き「イエスがどなたであるのか」をまざまざと見せつけられました。それでも、ペテロは十分に理解した訳でなく「三つの幕屋を造ります」と、イエスをモーセ、エリヤという人間と並べて考えていました。「口出し」(4節)とあるようにこれは余分でした。すぐさま天から「これは、わたしの愛する子。彼の言うことを聞きなさい」(5節)との声がしたのです。ペテロは何か言うのでなく、聞くべきでした。イエスは神の栄光に留まることなく、山を下りて行かれます。人々の中へ向われるのです。私たちと共にいてくださるお方とは、まことの神である方なのです。このイエスの手にひかれるならどこへでも参りましょう。